ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

ゲド戦記(3) The Farthest Shore

Thefarthestshore
Cover images from Bantam books 1975 paperback editions (art by Pauline Ellison).

毎回申し上げますが、原作に関しても映画に関してもネタバレが多々ございますのでご了承ください。

第三話:The Farthest Shore(1972)、邦題:さいはての島へ(1977)

 世界の均衡が崩れて魔法使いが次々と力を失う中、エンラッド王国の王子の息子アレンが父の命を受けローク島の魔法学院を訪れます。その長 (Archmage)となっていたゲドは周囲の反対を押し切り世界の秩序回復のため、彼と二人で世界の果てまでの旅に出る決意を固めます。ゲドの数々の冒険をともにしてきた船「Lookfar」でローク島を出た二人は、アーキペラゴアースシーの中心世界)を抜け、世界の果てと言われるSouth reachからWest Reachへ航海を続けます。様々な苦難の末たどり着いた群島(Dragon's Run)で彼等が見たものは太古の言葉を失い共食いをするけだものと堕した竜族でした。しかし太古の言葉を話す能力を保っていた竜王オーム・エンバーが飛来し、ある魔法使いが竜族を滅ぼそうとしていることを告げゲドに助けを求めます。魔法使いの力を失わせているのと同一人物であると確信した二人は世界の果ての島セリダーにたどりつき、島を追跡の末ついに犯人である魔法使いクモと対峙します。共に戦ったオーム・エンバーの最期の一撃で窮地に陥ったクモは生死の境の扉を開き死の世界(Dry Land)に逃げ込みます。それを追ってゲドアレンも死の世界へ足を踏み入れますが。。。

 これまでの三作の中で最もSFファンタジー&アドベンチャー小説の要素が強く、映画も多くのエピソードを流用している作品です。そしてゲド戦記は一旦ここで完結しその後20年近く三部作と呼ばれていたわけです。冒頭のカバーにもTrilogyという文字が見られますね。

映画に登場する人物:
Ged(通り名Sparrowhawk): この時点では壮年期~中年期(40-50歳くらいと学院の生徒が話しています)に達しており、世界の魔法使いの頂点に立 つArchmage(大賢人)となっています。その割りに南方から西方へ至る旅の途中であまり賢人らしくない行動が多い気もしますし、アレンを正しく導いて いるのかという疑問も若干あります。

 彼が真の力を見せるのは最後の死の世界でのクモとの対決です。クモが開いた生と死の境の扉を閉めない限り世界の均衡は回復しません。大賢人とは言えどたかが一人の魔法使い、出来るはずがないと主張するクモの目の前で、ゲドは全魔法力を駆使して成功します。しかし力を使い果たした為アレンにより生の世界へ引き戻された際には彼にはもう魔法使いではなくなってしまっていました。普通の人間になってしまった彼は大賢人の座を捨て世界平和をレバンネンに託し最古の竜カレシンに乗りゴント島に去ります。

 というわけで、映画の主な舞台である第四話の時点ではゲドはもはや魔法使いではなく普通の人間なのです。まあそれでは映画が成り立ちませんから映画でまだ大賢人なのは仕方無いですね。

Lebannen(レバンネン)(通り名Arren(アレン)): 第三話の実質的な主人公です。原作ではエンラッド王国の若き王族で、偉大なるモレド王の血をひいています。父は魔法使いの素質を 持つ王子ですが、彼自身には魔法使いの素質は無い設定となっています。父の命でローク島を訪れ、ローク学院で一目見た瞬間からゲドを尊敬します。

 既にここまでの段階で映画中最も論議を呼んだ彼の設定が大きく改変されていることがお分かりと思います。彼は父殺しなどしていませんし、影を生じさせたりもしていないのです。この事については前回検討しましたのでここでは割愛します。

 さて、その後旅の途中でゲドの行動を理解できず彼の無力さに不信感を抱くこともありましたが、結局彼への忠誠心を失う事は無く最果ての島へ共にたどり着きます。ゲドとともに死の世界にひきこまれますが、力を使い果たしたしたゲドを担いで「痛みの山」を乗り越えるという奇跡を成し遂げ、二人して生の世界へ戻ってきました。世界の均衡と秩序を取り戻し たこの遠征により、アーキペラーゴに平和をもたらすハヴナー王に認定されます。

 ここでアーキペラゴ世界の頂点に立つものが大賢人ゲドからハヴナー王レバンネンに移ります。大賢人とハブナー王の役割はちょっとローマ教皇(法王)とローマ皇帝を思わせるところがあります。実際の歴史ではこの両者には様々な軋轢がありましたが、ゲド戦記における大賢人ゲドは、アーキペラーゴ世界を統べるのは自分ではなく、長い間空位となっているハヴナー王が必要だと常々考えていた節があります。 

 第二話でエレス・アクベの腕輪テナーと共にハヴナー島に持ち帰った事により世界平和の回復の前提を整えたゲドは本作において、マハリオンの予言の実現をアレンに初めて会った瞬間から予感していたのかもしれません。この予言とは、ごく簡単に言うと最後のハヴナー王だったマハリオンが死の間際に

「暗黒の地を生きて通過し、真昼の遠き岸辺に達したものがわたしのあとを継ぐであろう。」

と言い残したものです。暗黒の地とはクモに引き込まれた死の世界、真昼の遠き岸辺とはセリダー島の事であるのは言うまでもありません。

 ちなみに映画の主題である第四話の時点ではすでにハヴナー王としての戴冠式前後で、一人で放浪はできるはずもありません。

Cob(クモ): ハヴナー島生まれの魔法使いでローク学院の生徒であった事もあります。邪悪な心を持ち、世界を征服し永遠の 生を手に入れる為生と死の境の扉を開ける魔法を会得し、死者を自在に蘇えらせる事ができるようになります。そこから世界の秩序均衡が崩れはじめ、人間界では魔法使いの魔力が失われていき、竜族では太古の言葉が失われていきます。セリダー島で瀕死の竜の一撃をくらい醜い姿が露になり死の世界に逃げ込みますが、死の世界で対峙したゲドが扉を閉じてしまったことにより決定的な敗北を知ります。怒りも嫌悪も悲嘆も失い唯の死者と化した彼は二人の元から去っていきます。

 映画では生と死の境の扉を開く魔法を探していることになっていますが、今まで述べてきたように既に彼は登場時点でそれを会得していますし、敗北後蘇える事もありませんでした。映画でゲドとテナーを海に突き落とそうとするシーンがありますが、これは原作では別の魔法使いで、第四話に登場します。

 それについてはまた次回検討しますが、その魔法使いよりはクモの方が映画で敵役にするには適していると思います。映画のラストで醜い姿が露になっていくシーンは、オーム・エンバーの一撃を食らった時のクモの状況を模していると考えられますが、なかなか巧く描いていると思います。ちなみに声優の選択の勘違いが目立つジブリですが、クモを演じた田中裕子さんだけはとても良かったと思います。やはり演技のうまい方は違いますね。

映画に出てくる設定:
エンラッド王国: アーキペラーゴの北方に位置する最も古い歴史を持つ王国で、その中でも最も有名な王がモレド王で、ハヴナー島に進出しアーキペラーゴ全体に初めて平和をもたらした賢王として尊敬されています。映画の冒頭ではエンラッド島内の王宮が登場し、王が凶兆に頭を悩ませているところを突然アレンに刺殺さ れます。この件に関しては既に検討済みですが、王宮の描写はさすがジブリで手馴れたものだと思いました。あえて言うともう少し地方色、民族色を強調しても良かったかもしれません。

Horttownホートタウン): 映画でゲドとアレンがたどり着く最初の港町です。原作では魔法学院のあるローク島の南方にあるワトホート島最大の港町で、原作でもこ の港町の描写はとても美しく、原作中でも最も生き生きと魅力的に描かれている町の一つです。映画でもこの港町は原作にかなり忠実に描かれており、作画チームは大変良い仕事をしていると思います。毎日がお祭りのような賑やかさ、魔力を無くした魔法使いの商売、ヘジアという麻 薬の蔓延なども見事に活写されています。

 この町でアレンが奴隷使いに捕まりすぐにゲドに救出されるエピソードが出てきますが、原作では映画と違い馬車ではなく奴隷船から救出されます。ですから原作では二人は直ちにこの島から離れ更に南を目指しますが、映画ではこの島にテナーやテルーやクモが住んでいて物語が展開していきます。第四作の舞台にホートタウンを無理やり入れたための齟齬なのですがゴント島とは場所も文化も全く違います。このあたりも原作を知るものには納得できないところでしょう。
 ただ、先ほど述べたように確かにこのホートタウンは無理してでも描きたい魅力に満ちているとは思います。

竜の共食いシーン: 映画冒頭でエンラッドの船乗りが目撃する印象的なスペクタクル・シーンで、このあたりはジブリの実力を遺憾なく発揮していると思います。この共食いは原作ではゲドとアレンが世界の西の果ての群島で目撃しています。
 もちろん、映画の設定から言ってそのシーンを挿入するのは不可能ですし、映画の導入部としてはまずまず悪くない設定であると個人的には思います。

世界の均衡の崩れと魔力の消失: 原作ではゲドが最初から見抜いているとおり明らかに一人の魔法使いの行為の結果です。具体的にはクモが生と死 の境の扉を開いてしまった事が原因なのです。ところが映画では彼は未だ扉を開ける方法を会得していないので、彼の責任にするにはやや矛盾があります。

 もっとも本作でのゲドとレバンネンの活躍によって世界の均衡の崩れは完全に解決されたわけではなく、21世紀になってからル=グイン女史が著した第五作「The Other Wind」に至ってようやくその全貌が明らかになります。

 というわけで70年代に三部作としてゲド戦記は一旦終了しますが、主人公たちとこの世界に様々な宿題を残しているとはル=グイン女史もこの時点では考えていなかったのだろうと思います。私も昔読んだころは完結篇として特に不満もなく、そのような批評も余り覚えはありません。20年近い歳月を経てもう一度筆を取ったのは彼女のフェミニズムへの傾倒であったようです。その第四話が映画では主な舞台となっており、次回検討したいと思います。