ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

ゲド戦記(1)(2)

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(Ursula Le Guin, copyright © by Marian Wood Kolisch, free download permitted)

毎回申し上げますが、原作に関しても映画に関してもネタバレが多々ございますのでご了承ください。


第一話:A Wizard of Earthsea(1968)、邦題「影との戦い」(1976)

 アースシー世界の東北にあるゴント島にゲドは生まれました。貧しい鍛冶屋の息子で幼名はデューニーと言いヤギ飼いをしていました。ある日魔女の叔母から才能を見出され、鳥寄せの術を教えてもらい、ハイ タカと呼ばれるようになります。ある事件の後、島一番の魔法使いオジオンの元に預けられますが、彼に真の名前「ゲド」を教えたのはこのオジオンです。しかしオジオンの教えに飽き足らない彼は、相談の末ローク島の魔法学院に入学します。学院長の大賢人ネマールがその才能の凄さを見抜いたように、彼は順調に成長していきますが、ある夜虚栄心から学院が固く禁じている死者を呼び出す術を使ってしまいます。そして死者の霊と共に「」をも呼び出してしまい、その影に襲われ瀕死の傷を負います。影はネマール大賢人の全魔力・生命力を賭した術により一旦は撤退しますが、ゲドはその影にその後脅かされ続けます。しかし師オジオンの助言により、自ら影と対峙することを決意し、それからは逆に彼の追跡が始まりますが、影がゲドにそっくりの姿をしていると言う事実が徐々に明らかになっていきます。。。

映画「ゲド戦記」に登場する人物

Ged(ゲド): 幼名Duny、通り名Sparrowhawk(ハイタカ
 もちろんこの小説全体を通じての主人公ですが、彼が完全な主人公であるのはこの第一話だけで、以後のシリーズではスーパーサブ(^_^;)的な扱いです。大賢人になるまでの話ですので第一話からは彼以外の登場人物は映画には全く出てきません。

映画に登場する設定

影との戦い: 映画ではアレンに託される「影」との戦いですが、上述したように原作ではゲドが第一話で戦うのです。この影は何を意味しているのでしょうか。原作ではゲドの慢心、虚栄心から出現していますので、偉大なる魔法使いになるために克服すべき心の闇、悪心を象徴しているものと思われます。一方映画でのアレンの影は、世界の均衡が崩れている証拠、或いは少年期の漠然とした不安と焦燥感を表現したかったようです。

 このように影そのものの負う意味が違うことは明らかであり、その点に異を唱える原作ファンは多いと思います。個人的には思想面はかろうじて許容範囲であると思いますが、行為面、特にアレンの父殺しは原作から大きく逸脱しており、その点が映画の最大の汚点であるという大方の見方には同意せざるを得ません。世界の均衡の問題にせよ、少年期の焦燥にせよ、説得力のある説明が映画の中でなされていないからです。

 ちなみに映画でゲドの顔の左側の色が違っていますが、あれは最初に出現した影に襲わ れてできた傷の無残な瘢痕なのです。魔法学院の最高レベルの治療を施しても回復するまでに何か月もかかり、その結果恐ろしい跡形を残しているという設定なのですが、映画のキャラクターデザインはあっさりしすぎていて、やや物足りない感はあります。また、第四話の主人公テルーの顔のやけども、ゲドに負けず劣らず悲惨なものなのですが、これも余りにもあっさりした描き方であり、この二人のキャラクターデザインは原作を知るものにとってはかなりの不満があると思います。

第二話:The Tombs Of Atuan(1971)、邦題:壊れた腕輪(1976)

 第二話はアースシー世界の中でも独特の文化と言語を持つカルガド帝国内のアチュアン島が舞台で、島内にあるアチュアン神殿のPriestess(大巫女)アルハが主人公となります。彼女は先代priestessの生まれ変わりとして幼小時に「食べられたもの」として名前を奪われ、女性と宦官しか存在しない隔離された墓所のある神殿の中のみで育てられ、「名無きもの」と呼ばれる太古神(実は邪悪なる暗黒)に仕えていました。しかしそこにある日、世界の均衡を回復するため「エレス・アクベの腕輪」の片割れを求めてゲドが現れます。神殿墓所地下の巨大な迷路に迷い込んだゲドを目撃してしまったアルハは最初彼を侵入者として殺そうとしますが、彼女の心は段々と搖れ始めていきます。ついに彼を信じる決意を固めたアルハは地下迷路最深部の宝物殿へゲドを連れていきますが。。。

 「少女の自己の回復と魂の解放の物語」(Wikipedia)でもあり、ゲドアルハの相互信頼が太古から存在する闇、悪の崩壊をもたらす物語でもあります。明と暗、光と影のコントラストの見事なゴシック小説であり、個人的には四部作の中で最も完成度の高い内容を持っていると思います。

映画に登場する人物
Ged(Sparrowhawk): この時点では壮年期に達しており、偉大なる魔法使いの証拠である、竜(ドラゴン)を御すことの出来るDragonlordとなっています。その割りにあっさりと迷路に閉じ込められてしまうのは、闇の力に判断力を奪われていたため、という説明がなされています。

 そのような闇の奥の宝物殿に何故「エレス・アクベの腕輪」の片割れが存在するのかということには長く複雑な物語があるのですが、映画には全く関係しないのでここでは割愛します。なお、もう一つの片割れは、第一話でゲドが影を追いかけている際、偶然ある離れ小島でカルガド帝国の王族の末裔であるそこの住人から譲られて持っていました。

 とにもかくにもゲドとテナーによりこの腕輪が修復され、世界の中央にあるハヴナー島に納められたことにより、100年以上の長きに渡り空位となっているハヴナー王が即位する可能性が出てきた、という設定は覚えておいてください。それが第三話につながっていきます。

Tenar(テナー)、Priestess名Arha(アルハ): プロローグにおいて既に実母にテナーと呼ばれており、神殿に連れて行かれてからは名前を奪われアルハと呼ばれていましたが、ゲドにより神殿から救出される際にテナーこそ「真の名」であると教えられます。

 つまり、幼少名が既に真の名で、アルハというのも巫女名ですから、通り名を持たないと言う不思議な扱いの女性です。これは魔法を信じず人々が魔力を持たないカルガド帝国独特の文化慣習なのですが、ル=グイン女史はその件に関しては実に30年以上を経た2001年に発表した「The Other Wind」でようやく説明しています。これは少し不親切すぎる気がしますね、あるいは第二作を著した時点ではそこまで深く考えておられなかったのかもしれません。

 なお映画ではテナーとしか呼ばれていませんが、その時点では結婚して未亡人となっておりGohaという通り名を授かっています。しかし、真の名を呼ばれてもかまわないカルガド人なので、映画中で誰からもテナーと呼ばれることに関してはそれ程問題はありません。

 なお第二話の時点では当然ながらカルガド語しか知らず、アースシー中心部(アルキペラーゴ)の言語ハード語は話せません。ゲドがカルガド語をある程度修得してやってきたので二人の間に会話が成り立っているという設定になっています。

 島から脱出後エレス・アクベの腕輪を二人でハヴナー島に届けたのですから、そこに留まれば一生尊敬されて暮らせるはずでしたが、彼女は喧騒たる都会・王宮を嫌ったためゲドによりゴント島の師匠オジオンに預けられます。島ではWhite Ladyと呼ばれていた事になっていますがこれは通り名で無く、肌の色が白かったから為と思われます。

 ル=グイン女史は明らかに人種問題もこの小説に込めていますが、映画ではその点に関しては全く言及していません。ちなみに髪の毛は黒色であると設定されていますが映画では金髪でしたね。

 このような複雑な経緯から浮かび上がって來る彼女の女性像とその内面的な成長の過程は、個人的にはゲド戦記全体を通じて最も魅力的であると思います。なお映画では魔法が使えるような設定ですが、大巫女=魔女ではありません。カルガド人には珍しく魔女の素質はあるのですが、結局彼女はその道を拒否します。長くなるのでそのあたりの詳細は第四話に讓ります。

映画に出てくる設定

テナーが

あの人が私を光の世界に連れ出してくれたのよ

とアレンに語る場面があります。先程も述べたように非常に完成度の高い小説なのですが、残念ながら映画ではこの一言ですまされてしまいました。個人的にはとても残念ですが、まあこれは仕方がありませんね。

 さて次回は最も冒険ファンタジー的要素の強い、そして映画にも多くのエピソードが採用されている第三話について検討したいと思います。