ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

生物と無生物のあいだ/福岡伸一

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)
 「モスラの精神史」を紹介したついでに、話題の新書をもう一冊紹介しましょう。分子生物学者の福岡伸一先生の「生物と無生物のあいだ」です。既に30万部を突破しているそうで、サイエンスものの新書としては驚異的な売り上げなんではないでしょうか。

『読み始めたら止まらない極上の科学ミステリー。
生きているとはどういうことかー謎を解くカギはジグソーパスルにある!?
分子生物学がたどりついた地平を平易に明かし、目に映る景色をガラリと変える!』

 以上は帯の煽りで、更にはよしもとばなな最相葉月茂木健一郎内田樹と言った方々が惜しみない賛辞を送っています。何ぼなんでも煽りすぎでしょう、と言うのが一応プロ(笑)の実感ですが、確かに生物、生化学、分子生物学などの知識があまり無い方でも生命の不思議が次々と解き明かされていくプロセスに知的興奮を覚えられると思いますし、難しい記述に疲れてきた頃には現実の研究者残酷物語の術懐が挿入されたりしていて、飽くことなく面白く読み進められると思います。

 個人的には題名から推測してプリオン病に関する新しい知見が盛り込まれていると期待していたのですが、実は「生命」の根幹である「自己複製」についてのレビューとなっていました。殆どが既知の事実だったので多少は損した気分にもなりましたが、苦節ウン十年、高校の生物から大学の生化学の講義、研究生活での何十冊と言う教科書、何百というペーパー(論文)でようやく理解した事柄が、実は新書サイズの本に詰め込める程度のものだったという事実が判明したのは収穫でした。→ここで池野めだか師匠みたいに泣く(笑。

 冗談はさておき、まあそれくらい良くまとめられているということなんですけど、思い起こせばこの様な本は同じ講談社が昔からブルーバックスで何冊も出してきたはず。この本がこれだけのベストセラーになった背景には、前記事でも触れた「世界一受けたい授業」などの、一般の方々に専門知識を平明に教える「知」のブームの影響があるんでしょうね。

 文章がうまいという賛辞が多いのですが、確かに自らの思い出についてかなりのこだわりを持ってページを割き、それなりの美文を並べておられます。率直に申し上げてそのあたりはやや自己陶酔気味で主題がぼやけている気がします。好意的にとれば科学者らしくない語り口が新鮮な感じを与えるのかもしれませんが、まあこの辺は好き嫌いが分かれると思います。

 一方で「研究者残酷物語」のエピソードなんかは本当にリアル(笑。私も一刻を争う世界最先端の研究現場に僅かな期間ですが身を置いたことがあるので、著者の苦労は本当に身をつまされる思いがします。自分には今の職業という「逃げ場」があったので彼らと同等の環境にいたとはとても言えませんが、実際臨床という退路を自ら絶ち、研究の道を選ばれた先輩もおられます。今は某KO大学の教授をされていますが、そう言えばその先輩からもこの著者と同じような愚痴を聞かされた事がありました。

 ところで科学者と言うと清廉潔白な学究の徒といったイメージがあると思いますが、この書にもあるように本当に偉くなっていく人はそんな枠には収まりません。例えば日本人でただ一人生理学・医学部門のノーベル賞を受賞した某T先生は、外国での研究生活時代、他人が回していた超遠心装置を勝手に止めて自分の検体を先回しにして激怒されたと言う実話があります。分かる人には分かると思いますが、超遠心を止めるって大変な事なんですよ。ちなみにその相手に

「自分の研究はノーベル賞クラスのものだから、クズみたいな実験をしている輩は譲って当然」

と平然と言い放ったそうで、これくらいのメンタリティが無いとこの世界では勝負できないんですね。もちろんノーベル賞を獲れなければただの嫌な奴ですが、実際獲ってしまうんですから(笑。

 勿論メンタリティだけの問題ではなく、世界最先端に伍していくにはそれだけの才能とセンスが必須です。私が研究人生をあきらめたのは正直に告白すると、このセンスが無い、と思い知らされたからなんですね。例えばこの文章を読んでください。

『細胞生物学とは一言でいえば「トポロジー」の科学である。トポロジーとは一言でいえば「物事を立体的に考えるセンス」ということである。(p191)』

なんでもない一文で、勿論この部分は比喩ではないのですが、そのまま研究で成功できる人の資質を表しているといっても過言ではないと思います。一つの実験結果から瞬時に物事の本質を「立体的に」推理できるセンスがないと最先端を争う世界では生きていけないのです。

 平たく言えばこの本を読んで

「生命の仕組みについてしっかり理解できたと満足」

するようではセンスは無いです。ノーベル賞を狙ってやろうという気概のある若い方は、課題を見つけ出し自分で解決してやろうと言う高い志を持ってこの本を読んでくださいね。