ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

病院が大震災から学んだこと

 いきなり恐ろしくシリアスな記事を書かせていただきます。ビックリしないでくださいね<m(__)m>
 1.17にはこのブログや他所で皆さんからいろいろなコメントを賜りありがとうございました。まだ自分で語るべき言葉を持たない、と去年も今年もお茶を濁してきましたが、よく考えればもう自分の職業も明かしてしまってるわけで、この本だけはどうしても紹介させていただきたいと思います。そしてこの本を元にあの時のことを少しは語ろうかと思います。

病院が大震災から学んだこと―神戸・新須磨病院(AMAZON在庫切れ)
病院が大震災から学んだこと (続)
病院が大震災から学んだこと (続)

 神戸市須磨区、須磨水族園の北側に位置する神戸では大変有名な病院である、新須磨病院澤田勝寛院長がおまとめになった本です。「病院が大震災から学んだこと」の方を大震災後まもなくして発表され大変な話題を呼んだのですが、それに甘んじることなく、10年目にも大震災を振り返り再度おまとめになられました。
 あの日あの時病院の職員はどう考え、どう行動したのか、そして病院は如何にして未曾有の危機を乗り切り、病院としての機能を再開させていったのかが、あらゆる職種の方々の証言をもとに実に分かりやすく、且つ克明に記録されています。一般の方々には病院のリスクマネージメント、経営戦略の項はとっつきにくいかもしれませんが、掲載されている「災害対策ニュース」1-15号は、どなたが読まれても、正確な情報伝達の持つ重みに胸を打たれるのではないでしょうか。

 率直に申し上げて、私が自分で語るべき言葉をまだ持たない、という言葉を使い続けたことの裏には強い悔悟を残し、トラウマとなっている事があるのです。それは、

山一つ越えればいつでも手伝いに行ける所にいながら何もしなかった

という自分の行動力の無さに対する深い嫌悪感、無力感なのです。実は新須磨病院というところは自分にとって、あの大震災のたった3ヶ月前まで2年間も勤めさせていただいていた病院だったのです。だからあの日、被害の規模がはっきりとマスコミから伝えられるようになってまず脳裏に思い浮かんだのは「新須磨病院は大丈夫だろうか?」ということでした。つながらない電話を何度も何度もかけ続けたすえ、やっと当時のA事務長につながり、「大丈夫です」という御言葉を聞いた時、どっと体中の力が抜けていくのを感じたことを昨日の様に覚えています。「手伝いが要るなら何時でも言ってください!」と伝えて切ったものの、向こうからは電話も無く、事実として一度も手伝いに行くことはありませんでした。この本を読んでいただくとわかりますが、私のようなものに電話をしていられるような状況ではなかったのです。

 もちろん、暇を持て余していたわけではありません。当時私は関連の3箇所の病院、診療所を掛け持ちしていてスケジュールは非常にタイトでした。(そのうちのひとつは中国自動車道が動かずしばらく行き来できませんでしたが)
 時々TBしてくださるE先生が以前自らのブログに書いて下さいましたが、彼は大震災当日に奇跡的に当直に来てくださって、二人で寝ずに救急対応にあたりました。その日からずっと、多分その週は自宅に帰らなかったと覚えています。

 家族はその日に家内の実家へ避難させました。タンスの上から落ちてきたオイル缶で鼻骨を骨折した息子(そう、今日センター試験を受けているはむちぃの天敵です^^;)の事 が心配で、あの日は家族全員を病院に連れてきていました。夜になって、家内の弟君が車を飛ばして当院まで迎えに来てくれたときは本当にホッとしたものです。

 その後もしばらく、神戸の辺境にある自分の病院でさえライフラインや食糧供給は心もとないものでしたし、ひっきりなしに震災中心地からの転院依頼があり、病床数の限度を越えて受け入れていました。大学の後輩から涙声で「一刻も早く手術しなければいけないのに手術ができないんです。先生お願いします」と頼まれた時にはこちらも涙ながらに引き受けたことを覚えています。この患者さんを運んでいただいたのは確か岡山救急の救急車でした。(その時、大学附属病院でさえ死体安置所のようになっていると聞かされ、胸の締め付けられるような思いもしました。)この患者さんは今でも御元気で通院していただいています。

 更にはその後、当地の周辺に数多くの仮設住宅が建てられたことが急激な人口増加をもたらし、外来患者が急増しました。田舎の病院だったところが、様ざまなところからの住民の方々が集まるわけですから、気質といういうものがまったく異なる方々に対応しなければならずそれは大変でした。マスコミが書きたてた美談ばかりではないよ、というのはこのあたりの苦労の事を意味していると思っていただいて結構です。

 人口増加は更には恐ろしいまでの交通渋滞を惹き起こしました。なんとか地元民しか知らない山道で通勤を、と思ったもののそこには巨大なごみ処理場があり、震災の廃材を運ぶトラックでそれ以上の渋滞と異臭ーー。

 何もかもが神経を疲弊させていき、結局自分の仕事をこなすことで精一杯、という日々が続き、2ヶ月ほどが過ぎていきました。以前書いた事がありますが、3月に初めて大阪に出て、震災地以外は何事も無く日々の生活が続いている、と身に沁みて知りました。その日の山本潤子さんのコンサートでは最初から最後まで涙が止まりませんでした。

 それでも、やはり自分は新須磨病院へ何とか手伝いに行けたんじゃないか、という思いは消えません。状況がようやく落ち着いてから、かつての同僚と会える機会があり

「MRがふっとんだ、ガンマナイフのアンカーボルトが歪んだ、病院の殆どの機能が麻痺して逆に医療というものの原点を見た」

と聞かされた時は涙が止まりませんでした。自分のやってきた事は通常の医療行為であり、未曾有の大震災と言う危機的状況からは程遠い、当たり前の事をしていたに過ぎないのだ、と思い知らされました。3ヶ月前まで勤めていた病院に何故助けに行けなかったのだろう、せめてもお見舞いにいけなかったのだろうと思う都度、悔悟と自己嫌悪にさいなまれました。

 ですから、澤田先生が、当院に「病院が大震災から学んだこと」を送っていただいた時、それを読むことには本当に勇気が要りました。ページを開くことが恐くて1-2ヶ月は放っておいた記憶があります。実際勇気を出して読み始めると、毎ページ、知っている人たちが想像を絶する経験をされておられることが手に取るように分かります。数行読むと涙が出て全く読み進むことができませんでした。
 続編を10年後に送っていただいた時、今回は冷静に読めるはずと思って読み始めたときも、やっぱり涙で読み進むことができず、行けなかった事への再びの後悔が胸をよぎりました。

 それでも読まなければいけなかった本であることは間違いありません。自分は澤田先生のご好意で贈呈していただいて読んでおきながら、皆さんに買ってください、ということは心苦しくはあるのですが、よろしければお手にとって読んでみてください。

 最後に、この本に出てくる方々の中にはもう鬼籍に入っておられる方もおられます。震災の犠牲者の方々ともども、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。