ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

桜の森の満開の下

 正月休みにどうしても読みたかったのが、坂口安吾の名作を英訳したこの本。hirakuさんのブログで知って買ってあったんですが読む暇がありませんでした。
英語で読む桜の森の満開の下
英語で読む桜の森の満開の下

 この小説は、安吾はあまり読んでない私でも昔読んだ記憶がありますし、たしか岩下志麻さん主演で映画にもなっている、坂口安吾の小説の中でも有名な短編です。それをロジャー・パルヴァースという方が英訳し、見開きで左側が英訳、右が原文で書いてあります。この方の事は知りませんでしたが、考えに考えて修辞を尽くす方でした。
 
 冒頭の数行は原文だとなんでも無い平易な文章なのに、英語で読むと

いきなり挫折しそうになりました(>_<)

 安吾の文章は、句点が多くて読点が少ない、一文の長い分体ですから、英訳すると大変なことになるんだなあ、と変な感慨を覚えました。それでも何とか乗り越えて読み進めていくと圧倒的に面白くなってきて、最後まで息つく暇もなく読んでしまいました。その後原文だけ読み返し、そしてその後に英訳文でも、もう一度読み返してしまいました。一粒で三度美味しいとはこのことですね。

 昔読んだ時はこんなに感動せず、中世の奇譚集の現代版かなと思った程度でしたが、英語と一々照らし合わせてひとつの文章をじっくりと吟味することで、安吾のレトリックの見事さとアイロニーの深さを再認識しました。

 英訳も本当に考えに考え抜いた文章だと感心しました。詳細はhirakuさんのブログを参考にしていただけると幸いですが、私は単純に下記の太文字のようなところがネイティブ・スピーカーの修辞を尽くそうとしたところなのだろうなあと思いました。

桜の森の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは「孤独」というものであったのかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独でありました。

No one living today can fathom the mystery of the space in the woods beneath the cherry blossoms in full bloom. Who knows, it might be what we know as solitude behind the mystery. After all, the man no longer had his solitude to fear. He was solitude personified.

 fathomはもともと水深を測ると言う意味ですが、ハリー・ポッターシリーズでも確かにこういう使い方をしていたのが記憶に残っていて強く印象に残りました。そして次の文章にwho knowsと継げるところも、良く考えておられるなあと思います。とどめは「彼自らが孤独」というのをsolitude itselfとせずにsolitude personifiedとしたところ。まあ素人を唸らせる程度の修辞なのかもしれませんが、クライマックスの場面であることもあり、余計に強く印象に残りました。

 訳者のご努力は続いて載っている訳者ノート、訳者あとがき(何れも上杉隼人氏訳)で更に解明されることになります。

東欧から日本までを渡り歩いたユダヤアメリカ系オーストラリア人を自称するパルヴァース氏

が力説されているのは

真に優れた文学には国境や文化の壁などは無く、すべての人類に理解可能である真理を含んでいるのだ

と言うこと。安吾を例にとって言うと、「洗練された鋭いアイロニーのセンス」は東欧や英米の優れた文学に通底するものがあるのだ、と。逆に言うと全てのその国の人々が自国の代表作家のアイロニーを理解しているわけでもなく、それには努力が必要なのだ、と。
 そう言っていただけると、日頃私などが抱いている、ポール・オースターが本当に言いたいことを理解しているのだろうか、とか、ジャズを本当に理解して聴いているんだろうか、とか言う悩みをやわらげて頂ける気がします。そういえばジャズ評論家ナット・ヘントフが小説の中で「黒人にだって音痴はいるさ」と書いていたのを思い出しますね。

 でもちょっと不安になるのは、これほどの日本文学を深く研究されているパルヴァース氏においても、本当に安吾の意図を理解していただいているんだろうか、と言うような記述が見受けられること。特に、hirakuさんも鋭く問題提起されているの問題は自分も凄く引っかかりました。
 簡単に言うと、主役の美女の着付けかたなのですが

そしてその紐は妙な形にむすばれ不必要に垂れながされて、色々の飾り物をつけたすことによって一つの姿が完成されていくのでした

と言う記述があり、それを以ってパルヴァース氏は「どうやら帯も満足に結べないようだ」と結論付けているのです。殺人強盗を何とも思わない山賊に山を捨てさせた程の傾城の美女がその程度の女であれば主人公として成り立たないだろうと思うのは、果たして日本人独特の美意識なのでしょうか?

そうだとしたら、安吾が意図したこの女の着付け方には、能の守・破・離の意識があったのかもしれません。観阿弥世阿弥により打ち立てられたこの思想は、たしかに無意識のうちに芸事や武術などの習得に際して日本人に植えつけられているように思います。簡単におさらいしますと、

: 師から教えを受けた通りの事を忠実に守り、反復修練して正確に身につけるまでの段階。
: 自らの意志によって師の教えを意識的に崩し、自分にあったものを築き上げてゆく段階。
: そのようなこだわりから抜けだし自由に思うままに至芸の境地に至る段階

と言うことになろうかと思います。繰り返し申しますが、安吾がこの絶世の美女を「」もできないような低俗な女として描いたとはとても思えません。

自分の自由気ままに帯を何枚も結んでいけばそれが恐ろしいまでの美を放つようになる

という、の段階を会得している女として描いていると考える方が、前後の筋から考えて違和感が無いと思います。それが日本独特の美であり、他国の方には理解し難いというのならば、やはり文化には壁がある、と言うことになってしまいますがーー。

 まあ、そんな余計なことを考えさせるほど知的刺激に溢れている、ということには違いありませんし、何より安吾の傑作を嘗め尽くすように読める、という贅沢を味わえる本です。この方は銀河鉄道の夜も英訳しておられるらしいので、次はそれを読んでみたいと思っています。