ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

最後の物たちの国で

 旅行するときには英語なら薄いペイパーバック、日本語なら以前読んで再読したいと思ったものを持っていくことにしています。まあいずれにせよ、日常性からかけ離れたもの、クラクラっと眩暈を覚えさせてくれるようなものを意識的に選んでいます。今回の石垣旅行には、hiraku_austerさんのブログで見て、あ、また読みたいなあと思ったこの作品を持っていきました。

最後の物たちの国で
最後の物たちの国で

人々が住む場所を失い、食物を求めて街をさまよう国、盗みや殺人がもはや犯罪ですらなくなった国、死以外にそこから逃れるすべのない国。アンナが行方不明の兄を捜して乗りこんだのは、そんな悪夢のような国だった。極限状況における愛と死を描く二十世紀の寓話。(AMAZON解説より)

 現代米文学を代表する作家の一人ポール・オースターの作品です。彼の出世作となったニューヨーク三部作と、彼の代表的長編小説のひとつである「ムーン・パレス」の間の時期である1987年に書かれました。前者のポストモダニズムの残滓と後者のストーリーテリングの萌芽が混在した過渡期的小説と言えるかもしれません。オースターはこの作品をとても愛しているようで、アメリカでは埋もれてしまっているのを殘念がっているそうですが、日本のオースターファンにはこの作品の愛好者が多いようです。柴田元幸氏の名訳も一役買っているのでしょう。その柴田氏が述べられているように、全編を覆う絶望の暗さの中に不思議な「希望」の光が射しており、本当に不思議な魅力をたたえた作品です。

 主人公が語るようにこの小説の舞台となる国には確かなものなど何一つありません。それと同じようにこの小説の設定自体何一つ具体的な地名はなく、場所、時代ともに曖昧模糊としています。確かなのはユダヤ人であるアンナ・ブルームという主人公が兄ウィリアムを探してこの国に来た、と言うことだけ。このあたりのファジィさを欧米の人より日本人が好む、ということもあるのかもしれませんね。

 いかにもポストモダン的だなと思うのはその曖昧さを外的な因子が補強することにより、この小説の舞台がある程度規定されている事。すなわち

1: ニューヨーク三部作の一篇「シティ・オブ・グラス」で最後に失踪したクインと言う人物のパスポートがこの国に落ちていたこと(本書p45)

2: アンナ・ブルームが書き記したノートの送り先が「ムーン・パレス」に出てくるジンマーという人物であること。(文庫版p133)

 この両書の舞台はともにニューヨーク、2は「人類が初めて月を歩いた夏」が舞台ですから、アンナ・ブルームは1969年の夏ニューヨークから船に乗り10日間かけてその国にたどり着いたということになります。

 オースターファンであればこのあたりの重層的な構造や彼独特の言葉遊びなども楽しむことができますが、彼の作品を読んだ事が無い方でも虚無の渦の中にずるずると引き込まれていくような眩暈感は味わえると思います。日常から束の間でもスリップアウトしたいときにはこの書を手にとってみられてはいかがでしょうか。最後にhiraku_austerさんの名文を引用して終わることとしましょう。

「最後の物たち」とは具体的に何を指しているのだろう、と考えるとわからなくなってくる。もちろんあらゆる物が消え去ってゆく世界であるから、目の前にある物は無に変わる寸前の最後の物である、という言葉通りの取り方ができる。(中略)さらには記憶が皆と共有できなくなったとき、言葉も無意味になってゆくから、言葉こそ最後の物である、とも。アンナはまさにその言葉をもってノートに物語を書きつづっており、アンナにとってはこのノートこそが最後の物かも知れない。そしてノートの中でアンナは願うのである。このノートがあなたにとって私を思い出すよすがとなる最後の物となって欲しい、と。オースターの物語世界にしばしば見受けられる、重層かつ重厚な構造である。