ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

震災から20年(8) 追悼1・17; 過去の1月17日の記事総集編

 前二記事で公私ともに自身が覚えている記憶、そして思いは曝け出してしまいました。最後に毎年の「1・17」の記事を掲載してこの長い企画・記事を終らせていただきます。お付き合いいただいた方には心よりお礼を申し上げます。

 このブログは2004年7月に始まりましたので、2005年から始まります。今から考えると随分甘ちゃんなこと、失礼なことも書いていますが、あえてそのまま掲載します。

Ten Years After」 2005/01/17

Hamashou

いつか子供達に この時代を伝えたい
どんなふうに人が 希望を継いできたか

君を守りたい この手で
愛を信じたい
人の心の 愛を信じたい
いつの日か

  (写真、歌詞ともアルバム『浜田省吾/約束の地』より)

 10年経っても自分の言葉で何か語ろうとすると混乱してしまって駄目です。ここは浜田省吾の言葉を借りておきます。
 一つだけいつも思っていることは、とにもかくにも生き延びることができて生活に支障が無い自分たちというのは、本当に運が良かったんだ、ということ。

十度(じったび)の 祈りの朝の 氷雨かな

 だから自分が117に出来ることは数千の亡くなられれた御霊を悼むこと、あの頃自分を勇気付けてくれた音楽に感謝すること、それだけです。

祈りとお知らせ」 2006/01/17

なにも願わない手を合わせる
なにも願わない手を合わせる

 今年も1・17がやってきました。あの大震災を経験したものにとっては、運良く生き残ったものが、運無くみまかれた方々の事を偲ぶ日であります。最初の頃はやはり、悲しみ、憤り、悔しさ様々な感情が沸き起こっておりました。しかしいつしか、藤原新也氏も長い苦悩の末に悟られたという

何も願わない、ただ手を合わせる


という行為を自分なりの納得の仕方で会得したような気になりました。もちろんあの日の事を思い出すと動悸がしますし呼吸がちょっと苦しくなります。とてもじゃ有りませんが悟りの境地などと呼べるものではありません。でも、とにかく、何も願わない、ただ手を合わせることを続けていきたいと思っています。(以下略)

合掌1・17」 2007/01/17

今回はココログ・メンテ、無事終わったようです。というわけで、毎年この日は合掌。「何も願わない、ただ手を合わせる」

追悼1.17@2008」 2008/01/17

Rokujyouhachimanguu

(六條八幡宮の三重塔、神戸市北区)
 まずは亡くなられた犠牲者の方に合掌。

 あれから13年、あの年に生まれた子がもう中学生ですね。様々な話題がマスコミから流れてきますが、あまり嬉しい記事というのは無いです。例えば今日の神戸新聞にも、

震災特例貸付制度の滞納金46億円を兵庫県が国に返済免除要望している

という記事がありました。
 その76.8%は上限20万円の小口資金で、震災当時の当面の生活費手当てとして貸し付けたものです。失礼ながらその程度のお金を返せないほど、全ての震災被害者が今も困窮しているのでしょうか。以前私があの当時の混乱を

「美談ばかりじゃなかった」

と書いた、その悪い方の側面が今もあの時出来た断層のように剥きだしになっている気がして心が塞ぎます。あの時無念の死を遂げられた方々の為にも、生き残った我々はより一層襟を正して生きていかねばならないと思います。

14年という歳月」 2009/01/17

20090117

(写真:毎日JPより)
 今日で阪神淡路大震災から14年の歳月が流れました。自身の経験については以前「病院が大震災から学んだ事」という記事に思いのたけをぶつけたので(笑、今更書くこともあまり無いのですが、これからも命のある限りは1月17日という日に特別な思いを持ち続けるのだろうなと思います。

 テレビやラジオもさすがにネタは尽きてきたのか、以前ほど長い時間は割きませんが、それでも幾つかの特集は見ました。一つ感慨深かったのは、もう

今の小学生は大震災を知らない

と言う事実です。子供たちにどう震災を伝えていくのかが問われる時代になったという事ですね。

 その一つの取り組みとして、須磨区にある舞子高校に「環境防災科」という科が設立されており、その紹介のテレビ特集もありました。震災で父をなくした少女(当時3歳、震災の記憶は無い)がこの科に入学し、授業の一環として中国・四川大地震の現場を見学にいき、同じく親を亡くした少女と抱き合う場面を見たらさすがに涙が出ました。テレビはやっぱりどうあっても視聴者を泣かせたいみたいですね(苦笑。

 何も願わない、ただ手を合わせる。合掌。

シンサイミライノハナPROJECT」 2010/01/17

117sannomiya

 今日は1月17日。阪神淡路大震災から15年が経ちました。今日の一言に書いた以上に、これまで多くの自然災害で命を落とされた世界中の方々の魂の安らかなる事を祈っています。

 本日のHoteiさんの催しでも最初に1分間の黙祷を捧げました。その内容についてはまた後日報告させていただきます。その前に買い物の途中で通った神戸国際会館の地下階段の黄色い紙の花々。これは「シンサイミライノハナPROJECT」です。

『「覚えていない。」 「まだ、生まれていなかった。」そんな世代が増えています。震災から生まれた教訓や、繋がりなどを大切に育てていくことが、神戸の街の未来を、そして私達の未来をつくっていくものなのではないかという想いのもと、このプロジェクトは始動致しました。震災を知らない若い世代が中心となり、震災について考え、向き合い発信しています。
たくんさんの方々から”あなたにとっての震災とは” というコメントを1枚の花びらに記入していただき、5枚で1本のシンサイミライノハナを咲かせます。 2010年1月15日~1月17日の期間中は約2万本シンサイミライノハナが神戸の街を彩ります。』

 私はもう若くはないので書いていませんが、若い人へのメッセージを書くとしたら、平凡ですがこう書きたいと思います。

「残されたものはどんなに辛くても前へ進んでいきなさい、命の灯を繋げていきなさい」

合掌。

追悼1・17」 2011/01/17

 毎年この日だけは同じ記事で申し訳ありません。阪神淡路大震災からもう16年経ちました。年年歳歳街は変わり人も変わり、そして自分自身も変わっていきますが、あの日のことだけは忘れずにい続けたいと思います。亡くなられた方々のご冥福を心から祈ります。合掌。

追悼1・17」 2012/01/17

 阪神淡路大震災から17年です。あらためて犠牲者の方々に合掌。

 昨年は東日本大震災があり、あらためて自分たちが被災したあの震災を思い起こすとともに、地震国に暮らすことの怖さ・危うさを学んだ年でもありました。

 私たちにとって何年も現在進行形で辛い日々が続いたように、今回の被災地の方々にはこれからも苦難の日々が続くと思います。遠い土地からの励ましの言葉など心に届くかどうか分かりませんが、希望を失わないで生きてほしいと願っております。

追悼1・17」 2013/01/17

 阪神淡路大震災から18年の時が流れました。あらためて合掌。

 あの年に生まれた方ももう高校三年生、時の流れの早さを感じます。あしなが育英会で教育を受けられた遺児の方も大きくなられたことでしょう。近い将来社会に出て活躍されることを祈っております。

追悼1・17」 2014/01/17

 阪神淡路大震災から満19年が経ちました。あらためて亡くなられた方のご冥福をお祈りします。合掌。

 阪神地区の「復興」という言葉自体もう古く手垢にまみれてしまった感がありますが、昨日の神戸新聞には、郊外型の巨大ショッピングモールや大手スーパーの林立に押され、大震災以後商店は一万店以上減少したと書いてありました。時代の流れ、といえばそれまでですが、震災が更地を増やしそれを助長した感は否めません。

 それに最近は阪神間のどこへ行っても大型マンションが増え、街の様相も随分変わりました。おそらく大震災を知らない世代の方が多くなった街もあるでしょう。

 東南海巨大地震が起これば大阪を中心として地震津波で巨大な災害が起こるというシミュレーションデータがよくニュースになり、その都度予想災害規模が増えているのが気がかりです。

 先程述べたスーパーの進出や大手マンションの建設は一見防災と無関係にどんどん進んでいる気がします。わが町神戸が本当に災害に強い都市に生まれ変わったのかどうか、心配すればきりはないのですが、都市計画の動向に防災がきっちりと反映されることを願って止みません。