ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

震災から20年(6) 追悼1・17; 最後に自らを見つめなおす Part-1

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 あれから20回目の1月17日が巡ってきました。この記事は午前5時46分に公開するように設定してあります。阪神淡路大震災で亡くなられた6000人以上の方々のご冥福をあらためてお祈り申し上げます。

 さて震災20年特集の最後は、恥ずかしいことこの上ないのですが、やはりこのブログでの自分の記録を振り返ります。さすがに膨大な量の記事となりますので、三回に分けて掲載します。

 まずPart-1はなんと言ってもこの記事です。第一回にも書きましたが、自分の中にしまいこんだ「もっと何かできたのではないか」という悔恨を、震災から10年が経ったある日ある一冊の本が蘇らせてくれました。

 震災で甚大な被害のあった神戸市須磨区にある新須磨病院から私の勤めている病院に寄贈いただいた「病院が大震災から学んだこと (続) 」という本です。

 その本を拠り所として2006年にありったけの思いをぶつけた記事が下記の記事でした。今読むと本当に赤面してしまいますが、逆にこれ以上のことを今書くことも出来ませんので、まずはこの記事を、文中に出てくる何と奇跡的に震災当日に当直に来てくださったE先生のコメントとともに紹介させていただきます。

『 病院が大震災から学んだこと 』 2006/1/22 記事  抜粋

 1.17にはこのブログや他所で皆さんからいろいろなコメントを賜りありがとうございました。まだ自分で語るべき言葉を持たない、と去年も今年もお茶を濁してきましたが、よく考えればもう自分の職業も明かしてしまってるわけで、この本だけはどうしても紹介させていただきたいと思います。そしてこの本を元にあの時のことを少しは語ろうかと思います。

病院が大震災から学んだこと―神戸・新須磨病院(AMAZON在庫切れ)
続・病院が大震災から学んだこと 震災から10年

 神戸市須磨区、須磨水族園の北側に位置する神戸では大変有名な病院である、新須磨病院澤田勝寛院長(当時、現理事長)がおまとめになった本です。「病院が大震災から学んだこと」の方を大震災後まもなくして発表され大変な話題を呼んだのですが、それに甘んじることなく、10年目にも大震災を振り返り再度おまとめになられました。

 あの日あの時病院の職員はどう考え、どう行動したのか、そして病院は如何にして未曾有の危機を乗り切り、病院としての機能を再開させていったのかが、あらゆる職種の方々の証言をもとに実に分かりやすく、且つ克明に記録されています。一般の方々には病院のリスクマネージメント、経営戦略の項はとっつきにくいかもしれませんが、掲載されている「災害対策ニュース」1-15号は、どなたが読まれても、正確な情報伝達の持つ重みに胸を打たれるのではないでしょうか。

 率直に申し上げて、私が自分で語るべき言葉をまだ持たない、という言葉を使い続けたことの裏には強い悔悟を残し、トラウマとなっている事があるのです。それは、

山一つ越えればいつでも手伝いに行ける所にいながら何もしなかった

という自分の行動力の無さに対する深い嫌悪感、無力感なのです。実は新須磨病院というところは自分にとって、あの大震災のたった3ヶ月前まで2年間も勤めさせていただいていた病院だったのです。だからあの日、被害の規模がはっきりとマスコミから伝えられるようになってまず脳裏に思い浮かんだのは

新須磨病院は大丈夫だろうか?

ということでした。つながらない電話を何も何度もかけ続けたすえ、やっと当時のA事務長につながり、「大丈夫です」という御言葉を聞いた時、どっと体中の力が抜けていくのを感じたことを昨日の様に覚えています。「手伝いが要るなら何時でも言ってください!」と伝えて切ったものの、向こうからは電話も無く、事実として一度も手伝いに行くことはありませんでした。この本を読んでいただくとわかりますが、私のようなものに電話をしていられるような状況ではなかったのです。

 もちろん、暇を持て余していたわけではありません。当時私は関連の3箇所の病院、診療所を掛け持ちしていてスケジュールは非常にタイトでした。(そのうちのひとつは中国自動車道が動かずしばらく行き来できませんでしたが)

 時々TBしてくださる医局の後輩のE先生が以前自らのブログに書いて下さいましたが、彼は大震災当日に奇跡的に当直に来てくださって、二人で寝ずに救急対応にあたりました。その日からずっと、多分その週は自宅に帰らなかったと覚えています。

 その後もしばらく、神戸の辺境にある自分の病院でさえライフラインや食糧供給は心もとないものでしたし、ひっきりなしに震災中心地からの転院依頼があり、病床数の限度を越えて受け入れていました。大学の後輩から涙声で「一刻も早く手術しなければいけないのに手術ができないんです。先生お願いします」と頼まれた時にはこちらも涙ながらに引き受けたことを覚えています。この患者さんを運んでいただいたのは確か岡山救急の救急車でした。この患者さんは今でも御元気で通院していただいています(2006年当時)。

 更にはその後、当地の周辺に数多くの仮設住宅が建てられたことが急激な人口増加をもたらし、外来患者が急増しました。田舎の病院だったところが、様ざまなところからの住民の方々が集まるわけですから、気質といういうものがまったく異なる方々に対応しなければならずそれは大変でした。マスコミが書きたてた美談ばかりではないよ、というのはこのあたりの苦労の事を意味していると思っていただいて結構です。

 人口増加は更には恐ろしいまでの交通渋滞を惹き起こしました。なんとか地元民しか知らない山道で通勤を、と思ったもののそこには巨大なごみ処理場があり、震災の廃材を運ぶトラックでそれ以上の渋滞と異臭ーー。

 何もかもが神経を疲弊させていき、結局自分の仕事をこなすことで精一杯、という日々が続き、2ヶ月ほどが過ぎていきました。以前書いた事がありますが、3月に初めて大阪に出て、震災地以外は何事も無く日々の生活が続いている、と身に沁みて知りました。その日の山本潤子さんのコンサートでは最初から最後まで涙が止まりませんでした。

 それでも、やはり自分は新須磨病院へ何とか手伝いに行けたんじゃないか、という思いは消えません。状況がようやく落ち着いてから、かつての同僚と会える機会があり

MRがふっとんだ、ガンマナイフのアンカーボルトが歪んだ、病院の殆どの機能が麻痺して逆に医療というものの原点を見た

と聞かされた時は涙が止まりませんでした。自分のやってきた事は通常の医療行為であり、未曾有の大震災と言う危機的状況からは程遠い、当たり前の事をしていたに過ぎないのだ、と思い知らされました。3ヶ月前まで勤めていた病院に何故助けに行けなかったのだろう、せめてもお見舞いにいけなかったのだろうと思う都度、悔悟と自己嫌悪にさいなまれました。

 ですから、澤田先生が当院に「病院が大震災から学んだこと」を送っていただいた時、それを読むことには本当に勇気が要りました。ページを開くことが恐くて1-2ヶ月は放っておいた記憶があります。実際勇気を出して読み始めると、毎ページ、知っている人たちが想像を絶する経験をされておられることが手に取るように分かります。数行読むと涙が出て全く読み進むことができませんでした。
 続編を10年後に送っていただいた時、今回は冷静に読めるはずと思って読み始めたときも、やっぱり涙で読み進むことができず、行けなかった事への再びの後悔が胸をよぎりました。

 最後に、この本に出てくる方々の中にはもう鬼籍に入っておられる方もおられます。震災の犠牲者の方々ともども、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

E先生からのコメント

 記事、読ませていただきました。先生がこの11年間心の中にしまって来られた思いを告白いただこと、深く感じ入りました。
 ただ、震災当日、そして数日被災地を走り回った僕だから言えることがあると思ったので、コメントさせていただければと思います。

 震災直後、そして数日は、神戸の六甲山表の救急は、すべての病院が1次救急と化して、野戦病院状態でした。2次、3次救急病院は、ライフラインの寸断により、機能せず。頼みの綱だった中央市民病院は、神戸大橋が通れずに救急車が入れない状態。神戸大学病院でも、同様の状態でした。医者は大勢居ても、手術場が使えず、医師の力が発揮できませんでした。

 そこで活躍したのが、北区以北の病院と、明石、加古川以西の病院でした。神戸中心部の2次、3次救急として、手術対応、患者受け入れをして頂き、震災の救急医療を、目立たないところで支えていただきました。なぜなら、震災当時、通れた道は、新神戸トンネル、六甲トンネル、西神戸有料道路だけだったのですから。(神戸表の東西の道は、すべて寸断されていました。)

 どうしても被災した1次救急に目が行きがちですが、実際に実働部隊として活躍したのは、周辺の病院だったのです。そして、先生の居られる北区の病院もその一つでした。
 震災当日、先生のところで一緒に寝ずに当直した日が、一番の僕の活躍場所だったともいえると思います。その後の病院は、医師として無力感に陥ってしまいそうな、そんな二日間でしたから。

 そして、もう一ついえることは、神戸に居た医師も、同じように被災者だったということでした。僕は、震災当時独身だったので、守るものが無く、何も気にせず、行動することが出来ました。でも、もし今、妻子がいる状態で震災に遭ったとしたら、同じ行動をしたかどうかは、わからないと思います。
 先生も同じ被災者だったことは、僕が先生が住んでいたマンションに居るから良くわかります。それなのに、家庭を顧みず一週間も病院に泊り込んだこと、特に震災当日を、僕が当直担当だったのに、来られないだろうと心配頂いて、代わりに病院につめて、さらに僕に任せて帰らずに、超多忙な当直を一緒に当直をしていただいた事、そのご恩は、今でも忘れたことはありません。先生は、僕から見ても、大活躍されたのだと思います。

 僕自身も、震災では、もっと出来たのではないかと思う事も多いです。被災地に居合わせた医師すべてがその気持ちは、こころの奥底に残っているのだと思います。こころに正直な先生だから、その気持ちを失わずに、今日まで持っておられたのだと思います。

 今でもE先生の暖かいコメントには涙が出ます。彼はその後AMDAでネパールに産婦人科の病院「AMDAネパール子ども病院」を建てるという偉業をなしとげ、今でも活躍しておられるはずです。そんな彼の活動の原点はやはりあの大震災の3日間の体験にあった、というインタビュー記事をリンクしておきます。

 長文を読んでいただきありがとうございました。最後にあの日に思いを馳せ、亡くなられた方々のご冥福を祈っていただければ幸いです。

 合掌。