( Children's Act in New Year Ceremony of Kobe City Fire Bereau 2015 )
前回に引き続き、小学生高学年の作文を各学年一つずつピックアップしてみます。さすがに高学年ともなると、起こった状況をある程度客観的に把握できていますし、将来への展望やマスコミへの不満などもはっきりと述べています。もちろん自身の体験に綴った作文も多いのですが、今回はなるべくそのような文章を選んでみました。
小4:H小 M.C.さん
『 ゆれがおさまった。わたしの大すきな犬のぬいぐるみをとって、また、ふとんにもぐった。
お母さんは、
「しごと、行くの」
とお父さんに聞いていた。お父さんは
「とにかく行ってみないと、どうなっているのか分からない」
と言った。わたしのお父さんは、けいさつかんだ。すぐにしごとに出かけてしまった。お母さんは、われた食きをかたづけている。私はそのまま、ぬいぐるみをだいて、ねていた。
わたしが起きた時、へやじゅうめちゃくちゃだったのが、きれいにかたづけられていた。
お父さんが、よなかの二時ごろ、帰ってきた。わたしは、こわくて、ずっと起きていた。お父さんは、あわてていて、
「しごとのなかまが、下じきになっている。しばらく帰れないから」
とお母さんに言った。けいさつしょがこわれてしまったようだった。お父さんは、すぐにとび出していった。すごく、あせって
いるようだった。お母さんが、
「早くたすけだしてあげてね。気をつけて」
と言った。わたしも、
「お父さん、気をつけて」
と言った。
わたしをまもってくれたお父さん、こんどは、けいさつの人たちのためにがんばってねと思った。 』
小5:HT小 K.T.さん
『 あれから、約三ヵ月ほどたった。だんだん、ガス、電気、水が使えるようになった。ほっとした。うれしかった。
今はオウム真理教とサリンのニュースばかりだ。学校から帰ってきても、オウム、オウムばっかりだ。夜になっても見たいテレビがまったく見れない。オウムの特別テレビで見られない。震災なんてしらん顔みたいにオウムばっかりだ。はらが立つ。私たちのちいきはそんなにひがいはないけど、でも私たちにとっても必要なニュースなのに・・・。
そして、次の日、家に帰ってテレビをつけてみた。そしたら、一月~三月までのニュースランキングがあった。それを見てたら震災のニュースは五位で、一位は、やっぱりサリンじけんだった。どうしてなんやろう。お父さんに聞いてみた。
「人ごとみたいに思っとうから、あんまり他府県の人は見てへんのとちゃうんか?」
と言った。
そして、また次の日、ひさしぶりに震災のことをやっていた。それは震災を俳句と短歌で表していた。悲しいことばかりだった。こういうことをもっといっぱいの人に私は知ってほしい。
なのに、サリンのことばかりだ!。震災にあった人たちも言っている。
「オウムのことで、私たちのことなどだれも思ってくれていない。私たちのことなどをもっとわかってほしいです。」
と震災にあった人たち、ほとんど同じことを言っている。
でも、神戸の人たちは、くじけていなかった。いっぱいの人たちで協力して、どんどんかんばっている。いっぱいの人たちが笑顔をとりもどしている。水、ガス、電気が使えなくても笑顔がある。
神戸の人は、なにがあってもくじけない!いつもかがやいているのだなあと思った。人それぞれが力をあわせてくらすことがどれだけ大事かわかった。
それと、水、ガス、電気がどれだけ大事なのかもわかった。』
小6:MT小 U.E.さん
『 八時すぎに電気がついてテレビがついた。開いた口がふさがらないとは、まさにこの事だと思った。アクション映画どころじゃなかった。高速道路が横だおしに、そして、あちらこちらで火の手が上がっていた。家から見える範囲で四つほど、煙があがっていた。「地震ってこんなにひどいんだあ」「こっちまでこの火事来ないかなあ」などと言いながら、それからしばらくは、テレビから目がはなせなかった。
そしてガスと水のない生活が始まった。電気があれば、いろんな事ができた。ふだんはそんなに使わない物が役に立った。でも水のないのは困った。トイレ、お風呂、洗たく、食事などその他いろんな事に困った。みんな目の下にくまができていた。水くみ。私は、正直あまりしなかった。でもくみに行く時、まったく知らない人が声をかけてくれた。「そこ、井戸水でしょ。むこうに給水車がきているわよ」と、ささいな事だけど、なぜかとてもうれしかった。水くみの帰り、道路に目をやった。救援物資を運ぶ車が、たくさん通っていた。一台だけじゃあない。何十台も何十台も。日本だけじゃあない。スイス、フランスなど、ほかにもいろんな国から。とても、とてもうれしかった。
小さいころから大切にしてきた夢。それは、音楽に関係する仕事をする事。だけど、この地震のことを、たくさんの人に伝えたい、避難している人の役に立つ仕事がしたいと、思うようになった。たくさんの人にこの地震の時、被害をゼロにできるように。だから、たくさんの人に知り合えて、伝えられる小学校の先生になりたい。』
彼らはもう30歳を越えて社会の中核となって働いてくれているはずです。湊川多聞小のU.E.さんは先生として頑張ってくれているでしょうか?
私たち夫婦がその当時子供たちにしてあげられることは限られていましたが、せめてもの気持ちで微小ながら「あしなが育英会」の支援は続けていました。
阪神淡路大震災に関してだけ言えば、孤児となった子供たちがもう全員成人になった今、その役割も一区切りついたのかな、彼らは無事に教育を受けられたかな、と思いをめぐらせています。
というわけで、最後にもう一つだけ、今回は中高生を省略しましたが、中学一年生の作文をどうしても捨て難かったので掲載させていただきます。
中1:M中 F.T.君
『 地震でお父さんと弟が死んだ。
当日は何が何だか分からなかった。何日かたって、とっても悲しかった。はじめの時は、寝るのがこわかった。時々、寝る時にそのことを思い出す。思い出すたびに、自分が、はがゆくなっていった。そんな時に友達が
「がんばれよ」
と言ってくれた。
その時は、うれしくてしかたがなかった。たった一言だけどうれしかった。この一言が、こんなにうれしくなる事を初めて知った。言われたときは、出そうな涙をこらえながら、少し笑って
「うん、分かった」
と答えた。
地震があってから色々変わった。気持ちもすこし強くなった。思いやりも多くなった。でも、やっぱり地震のことを思い出したくない。友達としゃべっていたりすると、地震のことを少しでも忘れることが出来る。 』