震災20年特集の4回目はあの頃の子供の作文集を取り上げてみたいと思います。写真の二冊は、
左: 「あたし あなた そして みんな -震災 人間を学ぶー」 神戸市教育委員会編、平成7年8月20日発行
右: 「ドッカンぐらぐら 阪神淡路大震災兵庫県下児童作文集」 兵庫県小学校教育研究会国語部会、兵庫県国語教育連盟 編、平成7年9月22日発行
です。どちらも大震災の年に小学生、中学生、高校生が書いた作文が収められおり、大変貴重な記録となっています。
あの時期に子供たちにこのような作文を書かせることに関しては、慎重な配慮が必要だったと、どちらの本にも書かれています。
肉親を亡くした子、家を失った子、疎開した子、様々な辛い環境下にあった子供たちですから当然と言えば当然だと思います。しかし苦しい状況の中でも他を思いやる心、助け合う人の心の温かさ、感謝する気持ちも実感したに違いない子供たち、その辛いこと嬉しかったことを、記憶が鮮明に残っている間に生の記録として残すことは大変意義のある試みであったと感じます。
また、書くという行為についての自分なりの私見なのですが、子供心にずっと抱えていた辛い記憶、心の内の自分でも分からないもやもやとしたものを涙とともに作文用紙に曝け出してしまうことは、ある意味一つの心の治療であり、心の整理であったのではないかと思います。
今回どの作文を読みおなおしてみても、やっぱり涙が溢れてきます。幼い子は幼い子なりにがんばって書いていますし、小学校高学年、中学生になるとちゃんと大人並みに状況を把握していたことが分かります。
全てを掲載することは当然ながら不可能ですので、各学年から一つずつ小学生の作文を紹介したいと思います。まず今回は小学校低学年からピックアップしてみます。
小1:神戸・K小 H.N.君
『 じしんで、ひいじいちゃんがしんでしまった。ちかくの中学生のおにいちゃんやおねえちゃんも、みんないっぱいしんでしまった。
ぼくは、いっぱい、いっぱい、なみだが出た。ひいじいちゃんが、ものすごくいたそうなかおをしてしんだのを見て、かわいそうでかなしくて、またなみだがでた。
「ひいじいちゃん、いたかったやろな。」
と、おじちゃんがいったら、みんな大ごえでないた。
じしんは人をころして、いえをめちゃめちゃにして、ものすごいわるいやつとおもう。つかまえられるんやったら、おまわりさんにつかまえてほしい。つかまったらもうじしんもこないし、みんなもぼくも、かなしくてかなしくてなくことはないのに。 』
小2:神戸:M小 K.S.さん
『 「ガッチャーン。」
というすごい音が聞こえ、ベッドが、ジェットコースターのようにゆれていました。わたしは、ベッドで頭をうったり、したをかんだり、何かと思って目をさましました。まわりはまっくらで、何も見えなかったけれど、弟のなき声だけが聞こえました。
少し明るくなってへやを見ると、ガラスや電球がわれて何もかもがめちゃくちゃでした。
すぐに、お母さんが、
「早く、くつをはきなさい。」
と言ったので、ベッドの上でくつをはいて外に出ました。学校へ行く道も、あながあいたりもり上がったりして、だんだんこわくなりました。
ひなんして体いくかんにいた時、おなかがすいてもおかしだけで、あったかいごはんがありませんでした。わたしは、いつもおかしが大すきだけど、すごくあったかいごはんが食べたかったです。地しんがおこる前まではわたしたちはどれだけぜいたくなくらしをしていたかがよくわかりました。
夕がた近くになるとお父さんがきました。わたしは、お母さんだけだったらちょっとこわかったので、お父さんの顔を見た時、
「ホッ。」
としました。お父さんは、わたしと弟をだいて、ないていました。わたしは、家ぞくぜんいんがぶじでよかったなと思いました。
「ホッ。」
としてもう一どまわりを見たら、かなしくてなきそうな人や、けがをしている人や、ボーとしている人がいました。これが自分のすんでいる町なんだなと考えたら、かなしくなりました。ねる時も、せまくてさむくてねむれませんでした。
だから、長さきにひなんしても、地しんのゆめばっかり見てこわかったです。長さきには一か月いました。こう戸に帰っても、まだ地しんのこわさをわすれられません。
たった一回の地しんが、今でもわたしの一番こわかった日をつづかせているみたいで、これがゆめだったら、早くさめてほしいです。そして元のこう戸にもどってほしいと思います。』
小3:N小:S.A.さん
『 わたしは、あした学校なのに、どうしてしんだい車になんかにのっているのかなと思ったら、じしんでした。
たんすがたおれてきて、わたしは、
「パパ、たすけて!」
とよびましたが、みんな、たんすのしたじき。でも、おとうさんと、おにいちゃんは、軽いたんすで、まずは、お母さんをたすけて、ひろのぶは、お母さんの一番おもいたんすに一人でしたじきで、ひろのぶをたすけたときには、一ことも声をださなかったから、ママが、
「ひろのぶがしんでいる」
といいました。みんなが、なきました。でも、ひろのぶはちっちゃなこえでしゃべりました。
戸があかなかったので、おとうさんが、二階のまどから、とびでました。それでおにいちゃんのつくえのなかのちいさいおもちゃのかいちゅうでんとうで、パパにドアをあけてもらうのをまってたら、家の前にアパートがたおれていました。ママがふりむくと、
「こわいっ」
と、カーテンをしめました。パパが、たすけにきてくれたので外にでました。パパがアパートの人に、
「たすけてください」
といわれて、たすけました。おかあさんとおとうさんは、あるばむとかお金をだしました。わたしたちを、いとこのおじいちゃんが、バイクでむかえにきました。おばあちゃんの家と店はぐしゃぐしゃ。でも、おばあちゃんとおじいちゃんは、たすかりました。じぶんのすきな物を一つでもいいからだしたかった。 』
この小学校低学年の子供たちも今は20代後半になっています。幼心にこれだけの思い出を抱えてこれまで生きてきた彼らの今が平穏であることを願ってやみません。
次回は高学年の子供たちの文章を紹介したいと思います。