ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

震災から20年(3) 週刊朝日1995年2月10日号

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2月10日号より

 自宅の焼け跡を調べていたこの親子は言った。「家は地震でほとんど壊れへんかってんけど、火が回ってきて一発や。残ったのは家族と、この金庫だけやけど、また一からやり直すよ。記念に一枚撮ってくれや。」(神戸市長田区)

 

 2月10日号になると、被災地の人々の状況や、「官邸機能せず」と題した当時の村山内閣の対応の遅れが大きく取り上げられています。しかし一週間経ってもやはり震災に割かれているページ数は少なく、グラビアが中心となっています。

 記者の方々は必死であちこちと飛び回り、出来る限りの取材を行っておられたのでしょうけれども連絡手段は限られており、たった20年前がまだインターネットも携帯電話も普及していない時代だった、ということを改めて感じさせます。

 目次に「長渕剛の薬づけの日々」や「羽賀・アンナのペアヌード」などという記事名が並んでいるあたり、前回も述べたように被災地とそれ以外の地域の温度差がさらに明らかとなった印象があります。

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 表紙をめくると「現住所 長田区御蔵小の校庭」の文字が目に飛び込んできます。次のページは見開きいっぱいを使ってこの写真が掲載されています。

廃材とビニールシートで組み立てた掘っ立て小屋のダイニングキッチンと、テント一張、自家用車三台。この野ざらしの「4DK」に、4世代が肩寄せあって生活している。」

 この震災時の被災者の、パニックや暴動を起こさない規律正しい行動、たくましい生活力や互助行為は世界中から賞賛を浴びました。この四世帯の家族もこのようなひどい環境の中、明るくマスコミを受け入れ、嫌がらずに取材に応じてくれたそうです。

 もちろん綺麗ごとばかりではありませんでしたし、一段落してから虚脱感に襲われる人々もいました。正直なところ、マスコミが迷惑であった場面も決して少なくありません。取材ヘリの騒音が瓦礫の下から助けを呼ぶ声を掻き消す、ということで大きな怒りをかったこともありましたし、プライバシーに土足で入り込んでくる態度に憤懣やるかたない、という声も聞きました。これは報道と言うものの宿命であるのでしょうけれども。

 

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 埋立地であったポートアイランド液状化現象のため、泥の街と化しました。「液状化現象」という耳慣れない言葉が一般的になったのはまさにこの時だったと思います。

 その上に橋とポートナイナーしか交通手段がなかったポートアイランドは孤立し、そこにあった神戸で一番の中核病院神戸中央市民病院が全く機能できなかったことは救急医療にとって大変な痛手でした。

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 それでも人々は再生へ向けて歩み始めていました。写真左の方の背中の手書きの文字とニコニコマークが泣かせます。「連絡のつかない人たちを一人ひとり訪ねて歩く女性。15食分のおにぎりを持ち、配っている」(神戸市東灘区)と、あります。ボランティア精神が大きくクローズアップされたのもこの大震災が初めてではなかったかと思います。

「おなかのすいてる人、
 おにぎりくばってます。
 お気軽に声をかけてください。
 うめおかかのおにぎり。(*^ ^*)」