ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

震災から20年(2) 週刊朝日1995年2月3日号

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 阪神淡路大震災20年企画、まずは週刊朝日の2月3日号を振り返ってみます。大震災直後に出た号でまだ十分な情報がなく、阪神地域の惨状の紹介が主な記事となっており、それほどのページ数は割かれていません。編集後記には「その日のうちに十人の記者が被災地に入った」と書いてありますが、まだ激甚被害地であった淡路島有馬温泉の状況は分かっていなかったようです。

 表紙を開くと、赤の巨大なフォントで

都市壊滅

という見出しが躍っています。次のページでは見開きで上のような燃え続ける神戸の町の遠景の写真が目に飛び込んできます。私の住んでいたところは丁度この辺りの六甲山の裏にあり、南の空が赤く変色し煙でどす黒くなっていた事に心底恐怖を感じたことを思い出します。キャプションを書き取ってみます。

高速道路が波打つように横倒しとなり、
新幹線の架橋が折れて落下し、
住宅街が焦土と化した。
こんな事態が
この国の都会でまさか起きるなどと
だれが想像できただろうか。
戦争でもないのに・・・・・・。
夜明けの都市を真下から突き上げ、
死者三千五百人以上という悲しみをもたらした地異は
私たちが「地震」と呼んでいた過去の経験をあざ笑ってあまりある。
粉々になった家屋の下で命を落とした人たちは、
今いったい何が起きているのか、
一瞬でも理解できただろうか。

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 その後何度もTVで流れた倒壊した阪神高速道路です。この写真の横に大京の別荘の宣伝が出ているのはシュールですらあります。日本の他の地方に何事もない時間が流れているなどとは信じられない時期でしたから、当時は何だ、この扱いは、と思いましたけれど。

 これに代表されるように西宮あたりから西への、明石あたりから東への交通網は麻痺し、六甲山系に囲まれた阪神地域は陸の孤島と化しており、自転車か徒歩でしか入ることが出来なくなりました。

 必然的に山越え、特に私の住んでいた北区の有馬街道が迂回路、進入路、避難路となり、想像を絶する渋滞が起こりました。
 私も震災から1週間以上自宅へ戻りませんでしたが、その後も通常3-40分で帰れる通勤路が2時間以上かかることもしばしばでした。渋滞の中、居眠り運転をしていた車に追突されたこともあります。私の故郷のナンバーをつけたボランティアの方だったので、不問にして別れました。
 知っている迂回路も悉く渋滞。ジモティしか知らないはずの山越えの道もごみ処理センターが峠の頂上付近にあり、瓦礫処理の車の列でびくとも動きませんでした。

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 これも有名になった阪神阪急の脱線、線路の捻じ曲がり、とくに阪急伊丹駅の壊滅状態は悲惨でした。ここまでのことが起こりうるのだと人々が初めて知ったのはこの報道が初めてだったと思います。ここにも横に「磁気ネックレス」の宣伝が載っています。

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 目次です。先ほども述べたようにまだ情報の乏しい時期で、特集の文字が躍っていても、記事はまだ少ないものでした。おまけに右の一番上の記事名が見えるでしょうか?

関西大震災を当てた占師

です。。。まだ死者が増え続けていたこの時期に。。。信じられませんでした。

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 裏カラーページから。必死で救助に当たる住民の方々です。右上の写真は何と、西市民病院という総合病院の中なのです。この病院では中層にあたる脳外科病棟の階が完全にひしゃげて潰れてしまいました。
 他の写真は西宮市神戸市中央区西宮市仁川町神戸市長田区と多岐に渡っています。何処がひどいとか軽いとかではなく阪神地区が完全に蹂躙された状況がお分かりになると思います。

 次は1週間後の2月10日号を振り返ってみます。