ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

震災から20年(1) 阪神淡路大震災を正面から振り返ることにした

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(週刊朝日1995年2月3日・10日号、まだ正式名称は決まっておらず、関西大震災とある)

 1月17日が来れば阪神淡路大震災から20年が経ちます。昨日の出初式で知りましたが、神戸市民の4割は大震災を知らないというのはちょっと衝撃でした。そう言えば今日は成人式、あの年に生まれた赤ちゃんがもう成人するのですから無理もありませんね。

 毎年この時期関西のメディアは震災特集でいっぱいになります。特に神戸新聞では昨年末から20周年ということもあり力が入っており、今日もその記事が見開きで大きく取り扱われていました。

 拙ブログでも1月17日には唯一の矜持として毎年追悼記事は書いてきましたが、正直なところ真正面から向き合うのは辛すぎてその場限りの記事となっていたことは否めません。

 20年も経ったのだから、もう遠い思い出となってしまったかというと、決してそうではありません。地震が起きた時のあの凄まじい衝撃は折に触れて思い出し、戦慄と恐怖感で動悸がします。特にあの東日本大震災が起こった時にはフラッシュバックが起こって本当に恐怖で身がすくむ思いがしました。

 そして大震災が起きてからの日々、自分が人として医師として何が出来たのか、ということを事あるごとに自問します。思い出すと達成感には程遠く、悲しみや悔恨、無念ばかりで自己嫌悪に襲われることもしばしばです。

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(続・病院が大震災から学んだこと: 新須磨病院院長 澤田勝寛先生編集、2005年)

 医師という職業の者にもあの大震災は大きな試練だったと思います。当時私の勤務していた病院は神戸市といっても郊外にあり、比較的すぐにライフラインが回復しましたから、震災の被害者や急病人の方々を受け入れ治療するという、側面からのサポートは出来たと思います。
 しかしそれは日ごろから救急医療をやっていた勤務医にとっては、それはもうものすごい忙しさだったとは言え、ちゃんと給料を貰って普通に医療行為を行っていたに過ぎません。

 一方、あの頃緊急回線でかかってきた電話やその後の会話を思い出すと被災中心地の医師がどんな辛い思いをしていたか。今でも強い心的外傷を残している医師は決して少なくないと思います。例えばこんな声々は耳にこびりついてはなれません。

先生、うちの病院はまるでモルグです。電気も点かないので真っ暗な中に何十体もの死体が並んでいるのをみるとさすがに医者でも気分が悪くなります。

先生、くも膜下出血が来ているんですが情けないことに機能が麻痺して何も出来ないんです、どうか助けてください(涙声)」

先生、救急車がもう出尽くしていていつになるか分からないんですが、患者がもしまだ生きていれば受け入れてくださいますか?

あの巨大なMR装置が数メートル動いたんや、信じられるか?それでも病院は残ったけれど周囲の家はことごとくぺっちゃんこや。。。

混乱の極みの中手の施しようがありませんと家族には言うしかなかったけれど、何人もの人を見捨てたんや、もう自分は何をしているんやろうと。。。(涙)

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(左「あたし あなた そして みんな -震災 人間を学ぶー」神戸市教育委員会編、平成7年発行、右「ドッカンぐらぐら 阪神淡路大震災兵庫県下児童作文集」平成7年発行)

 そんなわけで、それほど涙もろいわけでもない私ですが、阪神淡路大震災のニュースや記事を見聞するともう本当に反射的に涙が溢れてきて頭が混乱してしまうため、あの頃家族で

この体験を一生忘れないでおこう

と誓い合い、取っておいた資料もそれ以後殆ど見返すことが出来ずにいました。家内もやはり同じ思いだったようで資料は長く本棚の中で眠っていました。しかし今年は20年という節目、思い切って正面から振り返ってみたいと思います。

 まずは当時の週刊朝日2月3日号・10日号を振り返ってみます。