ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

小澤征爾さんと、音楽について話をする / 小澤征爾x村上春樹

小澤征爾さんと、音楽について話をする (新潮文庫)

 村上春樹氏と世界の小沢征爾さんの対談集が文庫版になったので早速購入しました。3年前に出た時にも買おうと思ったのですが、ちょっと高すぎるな、と敬遠しておりました。今回文庫本化に当たって、ジャズピアニスト大西順子さんとのエピソード「厚木からの長い道のり」も追加されて710円ですから、お買い得だと思います。

 ご存知のとおり、小澤征爾さんは2010年に食道癌がみつかり、療養を余儀なくされ、奇蹟の復活をされてからも仕事をセーブされていた時期でした。

 そんな体調のよくない小澤さんに気を使っての対談ではあるのですが、逆にそういう時期だからこそそれだけの時間が取れて、しかも聞き手が音楽に造詣の深い村上春樹氏だった、というのは奇跡的な僥倖だったと思います。

 あとがきで小澤さんが

正気の範囲を超えている

とまで書いておられるとおり、相当深いところまで村上さんは突っ込んで質問しているのですが、それに対し小澤さんが時には村上さんの造詣の深さに驚き、時には辟易(笑)しながら答えているのがなんとも微笑ましかったです。

 ベートーベンマーラーオペラ等々を題材にクラシック音楽の真髄から、指揮者の役割とボストン交響楽団サイトウ・キネン・オーケストラウィーン・フィルハーモニーなどのオケの実態、修行時代の師匠レニー・バーンスタインカラヤンなどのエピソード、そして今力を入れている若手への音楽教育など、さまざまな話題がてんこもりで、小澤ファンのみならず少しでもクラシックに興味のある方には存分に楽しめると思います。

  一方クラシックへの村上さんの造詣の深さには驚くばかりですが、かなり主観も混じっているし、個人的には違うんじゃないかな、と思うところもありました。それでも、村上春樹さんの文章を読めるのはハルキストとしてうれしいですし、特に「スイスの小さな町で」という章は対談ではなく、村上氏一人の文章なので、相変わらずリズム感のよい春樹節を堪能することができます。それが音楽に関するエッセイなのですから余計に嬉しい。

 そのうちでも、興味深かったのは第一回と第四回。

 第一回は「ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番」を巡っての話題が語られます。やはり、出てくるピアニストの話が面白かったです。かの天才グレン・グールド、村上氏が以前エッセイで取り上げた巨匠ゼルキンと彼の息子のエピソード、そして私の好きなピアニスト内田光子女史など。小澤さんが内田さんのピアノを

「この人のタッチはクリアですね。強い音も弱い音もはっきりと聞こえる。ちゃんと弾ききっている。曖昧なところがない。」

と誉めておられるのは、私自身が常に内田さんのピアノから受ける印象と同じでとても嬉しかったです。

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 第4番

 取り上げられているのはこのアルバム。ちなみに第4番はLPでバックハウスが弾いているのを持っているのですが、やはり時代の違いのようなものを感じます。これはお二人が何度も論じられていますし、小澤さんに言わせると時代とともに録音の仕方が変わってきたことも大きいようです。

 第四回は「グスタフ・マーラーの音楽をめぐって」。マーラーは拙ブログでも10万ヒット、30万ヒットでそれぞれ第6番第7番を取り上げた時にある程度勉強したので、とても興味を持って読めました。

 とは言え、さすがプロフェッショナルの小澤さん、目から鱗の発言が一杯です。ちなみにマーラーはわけのわからないことが多いという村上氏の発言に

「とくにね、七番と三番がそうだな。一番はよし、二番もよし、四番もよし、五番もよし。六番がね、ちょっとあやしい。でもこれはまあいい。ところが七番がね、これ問題です。三番もあやしい。八番になるとあれはもう巨大だからなんとかなる。」

やっぱり(笑。私はやっぱりとびきり難しい番ばかり課題に与えられていたんだあ、と思うと、、、楽しかったです(笑。

 あれで鍛えられたおかげで、村上氏の造詣の深さに感心はしましたが、明らかにそれは違うよ、と言い切れるところもありました。それは

マーラーの交響楽にはメトロノームの速度指定がないけれど、指揮者によってそんなにテンポは変わりませんよね」

と村上さんが訊いているところ。

 テンポは指揮者によってすごく違うんです。たとえばマーラー6番「悲劇的」。単純に時間で比べたデータをそのときのブログから再掲してみます。

Solti & CSO ( Decca, 1970 ) 76'49''
Imbal & Frankfurt Radio SO ( Denon, 1986) 83'44"
Bernstein & VPO ( DG, 1988 ) 86'40"
Boulez & VPO ( DG, 1994 ) 79'12"
Jansons & LSO ( LSO Live, 2002) 81'52"

 小澤さんの師匠のレニーはすごくゆったりと演奏していますし、ショルティ&シカゴ響なんかはそんなに急いでどうすんだ?というくらい速い。これ以外にもいろいろその後聴きましたが、ゲルギエフなんかは速かったですし、レニーの弟子である佐渡裕さんはやっぱりゆっくりでした。

 小澤さんも最初は「うん、そうかな」と頷かれるのですが、直後に「最近はずいぶん違うテンポの演奏をする人が出てきましたよ」とおっしゃっておられます。さすが小澤さん、よく聴いていらっしゃる。

 もちろん村上さんを批判しているわけではありません。あくまでも「スーパー素人」である村上さんの質問に対する、「プロフェッショナル」の小澤さんの闊達な答えを楽しめばいいのです。

 個人的に勉強になったのは「オペラ」について。小澤さんも最初はオペラには興味がなかったそうですが、カラヤン先生に「オペラとシンフォニー・レパートリーは車の両輪みたいなものだ」と教えられたそうです。私は残念ながらオペラは殆ど見たことがありません。長いし高いんですよねえ。でもこの本を読んで少し興味がわきました。

  さて最後には、文庫版の特典として、小澤さんとジャズピアニスト大西順子の共演の話題まで出てきます。大西順子さんも天才肌のピアニストですが、その引退ライブに連れて行ってもらった小澤さん、終わった途端立ち上がり

「俺は反対だ!」

と叫んだと言います。いかにも小澤さんらしいですねえ。そこから、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」を共演することとなるわけですが、ジャズピアニストとクラシック奏者のタイム感覚の違いなど、様々な難しい問題を乗り越えていくあたりは読んでいてなにか熱い感情がこみ上げて来ました。

 小澤征爾ファン、村上春樹ファンのみならず、クラシックに少しでも興味のある方には読んでいただきたい本だと思います。