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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 / 村上春樹

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
 いつの間にか新刊の出版が社会現象と呼べるほどの話題になる作家になってしまった村上春樹の新刊「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」です。超大作と小品を交互に出版するというペースを守ってきた彼のことですから、「1Q84 Book 1-3」の後は当然小品だろうと思っていましたし、実際そうだったのですが、マスコミはとにかく売れる売れるの大騒ぎ。どう考えても短期間に100万部を売り上げるようなタイプの小説ではないと思うのですが、春樹氏自身はどう感じておられるのでしょうね。
 そう言えば小説には解説や後書きを書かないことで有名な春樹氏ですが、今回は珍しく帯にこの小説の成り立ちを語ったインタビューが引用されて載せられています。曰く

「ある日ふと思い立って、机に向かって最初の数行を書き、どんな展開があるのか、どんな人物が出てくるのか、どれほどの長さになるのか、何もわからないまま、半年ばかりこの物語を書き続けました。最初のうち僕に理解できていたのは、多崎つくるという一人の青年の目に映る限定された世界の光景だけでした。(以下略)」

 その言葉のごとく、非常にパーソナルな、誤解を恐れずに言えば「1Q84」を書き終えた彼の精神的なリハビリのために必要だった小説という印象を受けます。

 とはいえ、「孤独」「」「」「心の闇」「深い部分での感応」「病む精神」といったこれまで彼が何度も取り上げてきたテーマが、彼の手癖とも言うべき文体の中で静かに蠢いているので、ハルキストにはいくらでも深読みが可能で、それを楽しむ小説と見ることも可能です。案の定どのサイトのレビューも百花繚乱ですが、個人的には書いてある文章以上のことを詮索しても仕方ないと割り切ることも長く春樹作品と付き合うには必要だと思います。

 目新しい点といえば、これまで「直子とキズキと僕」「島本さんと僕」「天吾と青豆」など、二ないし三人の精神的な深い絆を描いてきた春樹氏ですが、今回は名古屋の高校生五名という多人数の「乱れなく調和する共同体」をストーリーの中心に据えています。
 五人とはまた急に増えたものですが、おそらくは名前に「」をつける必要があったためにそのくらいの人数が適切だったのかもしれません。

 色の入った名前をつけるという手法は、私のお気に入り作家で本ブログでもよく取り上げるポール・オースターの傑作、ニューヨーク三部作の一作「幽霊たち」を思い起こさせます。しかし英語の表音文字と漢字の表意文字の差か、もっと平たく言えば名前に色がついている姓が日本ではさほど珍しくもないせいか、「幽霊たち」ほど徹底して抽象化されておらず、やや中途半端な印象を受けます。

 五人のうち四人が赤青白黒の色がついた姓を有しており、主人公多崎つくるだけが色のついていない姓名であるが故に、自分だけが「色彩の希薄な」特徴や個性のない、受動的な器のような人間と感じていた、などというのはとってつけたような理屈で春樹氏にしては陳腐だなあ、という思いが終始拭いきれませんでした。

 一方この五人以外に、灰色緑色の名前がついた人物が登場しますが、彼等はそれぞれとても重要な役割を背負って登場しているように思えますし、この二人に関する文章は読者を強く惹きつける力に満ちています。が、残念ながら何の担保もなく二人とも唐突に姿を消してしまいます。
 灰色が白と黒を混ぜた色であることに意味はあるのか、緑が語った「死のトークン」は誰かに引き継がれているのか、ストーリーの本質に関わってくる可能性もあるだけにもう少しは語って欲しかったところです。

 ちなみに色を持たない主要登場人物がもう一人います。多崎つくるの恋人の沙羅です。常に受身のつくるに対して赤青白黒の4人の消息まで調べ上げてまで「巡礼」を促す重要な役割を担っています。まあ大体、春樹氏の描く男性主人公は受身であることが多く、能動的な女性を登場させないと話が進まないことは確かで、小説中の動力装置とみなせば色がなくても特段問題ないのかもしれません。ただ、Mixi村上春樹コミュの中で、氏の短編「蜂蜜パイ」(「神の子どもたちはみな踊る」所収)中の沙羅に言及する発言があり、これは面白い着眼点だなと思いました。

 閑話休題、小説の本筋に戻ります(注:以下重要なネタバレがあります)と、多崎つくるは大学生時代に突然赤青白黒の四人から理由もなく絶縁されたことに深く傷つき、半年間自殺念慮にとらわれた後どうにか立ち直ります。それから16年後、先ほど述べたように沙羅に促されて四人(正確には生きていた三人)を訪ね歩く「巡礼」の旅に出ます。

 その「巡礼」で知りえた事実は衝撃的ではありますが、村上春樹作品としては想定内でもありました。つくるが絶交されたのは仲間の一人白が「つくるにレイプされた」と嘘をついたからであり、他の三人は多分それは嘘だと知りつつも彼女を守るためにはつくるを排除するしかなかった、というのです。
 白の嘘は完全に調和していた五人の人間関係がいつかは崩れ去ることへの恐怖、そして自らのピアノの才能の壁にぶつかっての精神の変調からきたもの、と表層的には説明されていますが、それに重層するように、秘かに白に好意を抱き性夢の中で彼女と性交していたつくるは、精神の奥底での交感により彼女をレイプし殺したかもしれない、という思いを抱きます。

 どこまでお人好しなんだ、と普通なら呆れてしまうところですが、今回も「悪霊」という言葉が何度か出てくるように、心の奥に住まわせている邪悪なる分身を描き続けてきた村上春樹作品の正統なる系譜ではあるのでしょう。

 そして多崎つくるは巡礼の最後に一つの結論を得ます。フィンランドに移住したもう一人の女性とともにブレンデルが弾くリストの「巡礼の年」を聴きながら、「第一年・スイス」から「第二年・イタリア」へと移ったまさにその時、

 「人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷とによって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ(p307)。」

と悟るのです。それは直子の死を受け入れた僕(ノルウェイの森)、島崎さんの失踪を受け入れた僕(国境の南、太陽の西)と通底するものがあるように思われます。

 けれども残念ながらその痛切さが心に響いてこない。16年も経ってから、それもいい大人が恋人に尻を叩かれてようやくその気になって友達に「あの時は何で僕を絶交したの?」と訊いてまわるだけのストーリー展開で、いきなり「痛み」だ「」だ「痛切な喪失」だと言われても、一読者としては戸惑うばかりです。
 それも多くの人がおそらく始めて耳にするだろう、マニアックでいかにも高尚そうなクラシックの曲で韜晦するという、ある意味姑息な手を使われては、氏の溢れるほどの教養が今回は却って鼻についてしまいました。

 とは言え、青赤黒三人三様の現在の有り様の描写はさすが村上春樹、と思われる筆力で描かれており、特にフィンランドでの黒との再開場面に張り詰める緊張感はとてもよかったと思います。

 巡礼を終えてからの文章がやや拙速で、最終章では突然地下鉄サリン事件に言及したり、ちょっと焦点がぼやけてしまったきらいがあるのが残念ではありますが、

「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ」「僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じることのできる自分を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない。」(p370)

という肯定的な文章で幕を閉じます。それまでのもやもや感をある程度払拭でき、ホッと心を落ち着かせることのできるフィニッシュでした。

 以上、氏の新しい文章を読めることはやはり大きな喜びでしたが、帯に書いてあるような成り立ちの作品であるせいか、今一つ感情移入できず、しかも幾つかの重要と思われる謎や関係性について何ら語られないまま、悪くはないけれど中途半端に終わってしまったな、という読後感でした。

リスト:巡礼の年(全曲)  最後に氏の作品での楽しみの一つである音楽について。「ル・マル・デュ・ペイ」がYoutubeで話題になっているリストの「巡礼の年」の他、緑の弾く天才的な「ラウンド・ミッドナイト」は言うまでもなくセロニアス・モンクの作品、そして赤の台詞に出てくる「良いニュースと悪いニュースがある」は、サム・クックの名作「Good News」を意識したものと思われます。「Good News」は「今日の一曲」にしばらく載せておきますのでよろしければお聴きください。