ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

太陽を曳く馬 / 高村薫

太陽を曳く馬〈上〉 太陽を曳く馬〈下〉
 高村薫女史の三部作が完結しました。計6冊、2390頁、7年の歳月を費し、20世紀の日本を貫いて21世紀の現在に至る壮大・重厚・難解なサーガでした。先ずは高村薫女史に心から「ご苦労様でした」と申し上げます。
 正直に告白すると、読後は呆然自失状態でした。そしてその後数日間は様々な思いが脳裏をよぎっては消え、なかなか考えがまとまらず、前二作を折りに触れ読み返したりしていました。

 本作もやはり前作「リア王」と同じく、文章は固く長く時として難解であり容易な流し読みを決して許さない厳格さに満ちています。それに加えて五人の曹洞宗僧侶が真に「禅問答」を繰り広げるため、告訴状に関する取調べがすぐに観念論宗教論に入れ替わり、形而下と形而上の往復がジェットコースターのような目まぐるしさで繰り返されます。

 とは言え、前作「リア王」に比すれば意外なほど本作は読み易くなっています。その理由としては、高村作品の中でも最も人気の高い合田雄一郎刑事を主人公級に起用し、一応警察小説としてのストーリーを設定した点が一番大きいと思います。彼が難解な現代美術や仏教哲学を語る上での緩衝材となり、更には犯罪や裁判の語り部となることにより、ストーリー展開に一定の流れができ緩やかながらも読者を前に前にと後押ししてくれています。

 では先ずレビューの取っ掛かりとするために、この三部作に関して紹介文を参考にして簡単に振り返ってみます。

晴子情歌: 装画:青木繁「海の幸」1904年
(上)昭和50年、洋上にいる息子へ宛てられた母・晴子の長大な手紙。そこにはみずみずしい十五歳の少女がおり、未来の母がいた。三十になって知る母の姿に激しく戸惑いながら、息子・彰之は初めて母という名の海に漕ぎ出していく。
(下)戦前から戦後へ続く母・晴子の回顧と独白は、彰之自身の記憶の呼び声となって波の如く重なり、うねり合う。母はなぜこうも遠いのか。母とはいったい何者か。薄れゆく近代日本の記憶と、ある母子の肖像。

リア王: 装画:レンブラント「金の鎖をつけた老人」(上)、「瞑想する哲学者」(下)
(上)『晴子情歌』で母と向き合った彰之は禅僧となり10年後、政治家の父・榮を雪の草庵に迎えた。長い年月を経て初めて対座した父と息子の魂は、聖と俗のはざまでせめぎ合い、燃え上がる。
(下))『晴子情歌』の時代から10年、福澤王国は崩壊した。王座を追われてなお政治家たらんとする父・榮と、仏という不可能に向かう息子彰之が切り結ぶのは父子の血か、人間という究極の孤独か。

太陽を曳く馬: 装画:マーク・ロスコ
(上)福澤彰之の息子・秋道は画家になり、赤い色面一つに行き着いて人を殺した。一方、一人の僧侶が謎の死を遂げ、合田雄一郎は21世紀の理由なき生死の淵に立つ。
(下)死刑囚と死者の沈黙が生者たちを駆り立てる。僧侶たちに仏の声は聞こえたか。彰之に生命の声は聞こえたか。そして、合田雄一郎は立ちすくむ。

 第一作が「晴子」、第二作が「新リア王=福澤榮」と明らかに個人を名指しして題名としているのに対し、この第三作は主人公を題名で特定していません。その代わりに紀元前二千年ごろのスカンジナビアアルタの岩画に描かれている「太陽を曳く馬」という岩絵を題名としています。
 それに呼応するように装画も前二作が具象画であったのに対して、本作は抽象表現主義の代表的画家、マーク・ロスコの絵を用いています。

Newman_room  そして同じく抽象表現主義の画家・バーネット・ニューマンの「アンナの光」に高村女史は深く心を動かされたようです。巨大なカンヴァスに強烈な赤一色が均一に塗られているという、所謂「カラー・フィールド・ペインティング」の代表的作品ですが、本作中でも福澤秋道が邪魔になる音を消すため人を殺めた際に熱中していたのは部屋を赤一色に塗り込める行為でした。その行為を読み解くために福澤彰之が「アンナの光」に言及する記述があります。

「単一の色が視界の全てを覆ってしまうくらいの広さになると、それは光になる」

という記述は大脳生理学的にも大変示唆に富んだ表現で感服しました。

 そのような一見理解される事を拒否しているように思える現代美術を本作の重要なテーマとし、敢えて題名からも具象を捨て去る事により、この21世紀初頭の言葉による相互理解が困難な世界を読み解いていこうとする姿勢がうかがえるかと思います。先日「高村薫インタビュー」で掲載した女史の言葉を再掲します。

「20世紀以降、画家たちは目に見える形を崩すことで自由を求めた。秋道もまた、描くことでのみ、世界と相対している。多くの人にとって訳の分からない現代美術だけれど、それを眺めることで、言葉に替わる世界への向き合い方が開けてくるんじゃないか」
「殺人にしろ宗教にしろ、当事者だけでは普通の言葉が通じない。私たちを代表して観察する者、すなわち絶対的第三者の視点が必要だった。しかし一般の人間が事件を眺めても、実のところ何も見えはしない。だから絶えず言葉を発し、自他と対話するのです。」

 現代美術に関して大脳生理学にまで踏み込み、更にはその周辺にあるあだ花のようなポップ・アートから吉田戦車ガンダムの世界にまで言及するその貪欲なまでの探究心には脱帽せざるをえませんが、それがこの本を貫く真のテーマを理解する一助でしかないところに本作の真の凄みがあります。

 今回高村女史が問うた真のテーマは「」と「宗教(仏教)」の現代的関わり方であろうかと思います。特に主人公福澤彰之合田雄一郎の周囲にまとわりつく「死」の影の何と濃厚な事か。

彰之の妻初枝の餓死、
彰之の息子秋道の死刑死、
秋道の殺した二人(及び嬰児)の理不尽な死、
彰之が自らの修行施設に招き入れた青年僧の謎の事故死、
9.11事件での数千人の一瞬の死、
その中の数千人のうちの一人である合田雄一郎の元妻の死。

 その各々の死の意味を那辺に求めればいいのか、福澤彰之と合田雄一郎の問いは果てしなく続いていきます。

 そして死のあるところに宗教は必ず存在します。今回も前回に続いて仏教、特に道元を開祖とする曹洞宗に関して、高村女史は彰之をはじめとする複数の僧侶に縦横無尽にその教義について語らせ、更には合田雄一郎が「正法眼蔵」を読むという、およそ刑事という職業イメージからかけ離れた行動をとるところまで踏み込んでいます。               

 その上で本作に於いて高村女史が検証したかった問いが後半の一つのヤマとなります。ストーリーの本筋においては、てんかん(複雑部分発作)の持病があり、不慮の事故死を遂げた一青年僧が実は元オウム真理教信者であったことから謎が深まっていくのですが、高村女史が現実世界の問題として問いたかったのは

オウム真理教を宗教と認め得るか?」

という疑問です。日本仏教界が当時避けて通ったこの問いに真正面から切り込むために、ストーリー中では彰之が自身が副僧侶を勤める寺の修行道場において元オウム信者を嫌がる他の僧侶たちにこの問いを発します。
 
 おそらく高村女史の結論は、この作品の重要な登場人物である長谷川明円住職の次の言葉に集約されるのだろうと個人的には思います。

「主宰者である麻原という人物については、なにがしかの宗教的資質に恵まれた人だというだけで、実際には修行を怠り、瞑想を怠り、何より修行の大前提である戒を保たなかったと言うほかはない。あんな太ったグルはおりません。(中略)オウムが自らを宗教と呼ぶのは自由だけれども、一般には、人間の言語体系を超えた神秘体験の抽象化、表象化がない世界を宗教と呼ぶのは難しい」

 こう長谷川明円が切って捨てるまで、一体何万何十万語を費やした事か!道元の教えはもとより、マックス・ウェーバーの近代社会学的視点、分析と体系化のインド哲学的理性に照らし合わせて討論し続ける5人の僧侶の論戦はもう圧巻としか言いようがありません。特に当時流行語にまでなってしまった「ポア」「タントラ・ヴァジラヤーナ」について、漠然と

仏教用語を勝手に自らに都合よく解釈し人殺しを正当化した」

というところまでは理解できても、その本来の意味を知らなかった私にとっては、初めて腑に落ちる説明を聞かされた気がしました。

 といっても5人の僧侶の論戦という形で情報が提供されるため、最終的な判断は個々の読者に委ねられていると言っても過言ではありません。「1Q84」に於いて同じオウム真理教を扱った村上春樹

物語の力

を信じているのであれば、高村薫

問い続ける近代的批判精神

を信じているのだろうと考えます。直観が必要な現代美術や神秘体験の抽象化が必要な宗教的世界の存在を認めた上で、敢えて人は問い続けていかなければならないのだ、という覚悟を現代人に突きつけているのがこの物語であり、その重さを受け入れるか拒否するかでこの作品に対する評価は大きく変わってしまうだろうと思います。個人的にはオウム真理教の意味を問う姿勢に関しては村上春樹よりも高村薫の方が圧倒的に優れていると思います。

 もちろん合田の部下で現代っ子吉岡のように、本質を直感的に見抜く目は持っていてもそれ以上には踏み込もうとせず携帯相手に自分の世界に埋没してしまう現代人のあり方も、高村女史は(苦々しくは思いながらも)否定はしておられないようですが。

Hichinagahama  以上、形而上的記述が大半を占める本作ですが、最後は彰之の息子・死刑囚秋道に宛てた本仮名遣いの手紙で幕を閉じます。その最後近くで再び津軽の広大な七里長濱へと彰之の思いは帰っていきます。晴子が、彰之が、初江が、そして秋道が見つめていた茫漠とした砂丘と海。

 思えば「晴子情歌」は晴子の息子彰之宛の長大な本仮名遣いの手紙で始まったのでした。そしてその冒頭には、少女の晴子が見た七里長濱の境界も定まらぬ空と海と砂嵐の入り混じった白明、砂丘を渡る清々とした風の音、そして行きずりの雲水たちが唱えてくれた四弘誓願(しぐせいがん)の声とリンリンと鳴り続ける持鈴の音が描写されていました。

 おそらく彰之の心象風景にも、晴子の手紙から想像したこの情景があったでしょう。私ももう一度「晴子情歌」の冒頭を読み返してみて、なぜか涙が溢れてきました。この彰之の手紙は、渾身の三部作を読み通した者に高村女史が送ってくださった最高のプレゼントなのかもしれません。