ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

井上道義のベートーヴェン:第四回 晩年の大作@西宮

Benz2_2
 今月兵庫県立芸術文化センターでは「井上道義のベートーヴェン」と題して芸術文化センター管弦楽団(PACO)特別演奏会が催されています。先日の記事では第二回をお伝えしましたが、昨日は第四回(最終回)を聴いてまいりました。前宣伝によりますと、最後に第九を持ってこないところが井上道義らしいひねりの効いたところらしいです。

日時: 5月30日(金)午後3時~

ミサ・ソレムニス ニ長調 作品123
 第一曲: キリエ(あわれみの賛歌)
 第二曲: グローリア(栄光の賛歌)
 第三曲: クレド(信仰宣言)
 第四曲: サンクトゥス(感謝の賛歌)
 第五曲: アニュス・デイ(神の小羊)

指揮  井上 道義 
管弦楽  兵庫芸術文化センター管弦楽団 

ソプラノ/澤畑恵美
アルト/福原寿美枝(黒木香保里休演のため交替)
テノール/市原多朗
バリトン/井原秀人
合唱/神戸市混声合唱

 今回ももちろん指揮者は井上道義氏です。前回は指揮壇がありませんでしたが今回は合唱団を良く見るためか、指揮壇が設けられておりました。席が前から三列目の中央だったのでずうっと井上氏の後姿を眺めていました。井上氏の後頭部の特徴を専門用語で言いますと矢状縫合とラムダ縫合が盛り上がっておられまして、結果メルセデス・ベンツのマークにそっくりなんです。ミサ曲を聴きながらその後頭部を凝視していると催眠術にかかったようになり、ああ、ベンツがベンツが揺れている。。。(^_^;)

 などと言う不謹慎な事を思いながら五曲のミサ曲を聴きとおしましたが、幸い眠ってしまう事はありませんでした。やはり目の前で演奏され、歌手が歌っているという視覚効果は大きいですね。こういう曲はオーディオよりやはりライブで聴くべきなのでしょう。ラテン語で言うと

In Situ

ですね。ちなみに自宅のオーディオで聴くのは「 In Vitro 」と言います、、、かも、どうでしょ、どるさん(笑?

 おまけにミサ曲と言うのは殆どラテン語主体ですから聞き取りが困難なのも眠くなる原因です。しかし今回は両脇の小さなスクリーンに日本語訳が映されるというサービスがありましたのでありがたかったです。でもこんなときに限ってかぶりつきを取ったのは失敗でした、首が痛い(笑。

 この曲については何も前知識を持たずに出かけたのですが、確かに荘厳でかつバラエティに満ちた構成で、素晴らしい楽曲であると思いました。プログラムの解説を抜書きして見ますと、

『厳かに始まり、ベートーヴェン特有の力強さと後期作品ならではの深みをふんだんに湛えているのが特徴です。自筆譜の冒頭に記された”心より出て、願わくば、再び心へと至らんことを”という言葉の通り、宗教音楽および宗教行事の約束事よりも、作曲者自身の真摯な情熱が全編に満ちあふれ、一人の偉大な天才が、唯一なる神と胸襟を開いて交わり合っている趣が漂う力作になっています。』

と記されています。ふ~んなるほど。確かに音楽としてこのような場で聴く価値のある作品ではあるなと思いました。

 しかしやはりミサはミサですね。歌詞の方はひたすら三位一体のキリスト賛美であり、信仰告白であるわけですから、クリスチャンの方は恍惚となれるでしょうけれど、私のような無神論者の聴く音楽じゃないです、やっぱり。例えば三曲目の「CREDO」。CREDOは信じると言う意味で、英語のcreditやincredibleなんて単語にも名残が残っています。当然唯一神を信じるわけですが、やたら抹香臭い言辞が延々と並んで最後には

「待ち望む、
死者の復活を、
来世での命を
アーメン」

なんやねんそれは?この世はどうなるねん?やっぱり人は死ぬと土に還るのですよ。

 てな結局やっぱり不謹慎な事を考えつつ聴いてました。オーディオ的には合唱の聞こえ方が良く分かって収穫でした。特に合唱のソプラノ領域の高音と言うのは束になって押し寄せてくるとかなりきつく感じるものだと言う事を身を持って理解しました。オーディオで合唱を再生する時にはどうしても綺麗にかつ滑らかに再生しようとしがちでしたが、ことさら無理にきつさをとる必要はないんですね。

 ということで井上道義氏のベートーヴェン、2回だけでしたが楽しかったです。また別の作曲家でこのような企画があれば聴いてみたいと思います。帰りには井上道義&新日フィルの「マーラー1番:巨人」を買って帰りました。何故これを選んだかは、まあそのうち分かるでせう(^_^;)。