ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

奈良放火殺人事件に思う

 あまり社会事件は取り上げないブログなのですが、このところずっと脳裏から離れないもので敢えて取り上げることにします。少年がもし精神を病んでいたのなら何も語るまい、と心に決めていたのですが、報道を見る限りそうではないようですのでとりあえず今思っていることをまとめておきます。
放火・殺人容疑で長男を逮捕、奈良・母子死亡

 この事件、あまりにも自分に近すぎるところで起こっている印象が強くどうにもこうにもやりきれない、と言うのが実感です。実は私とこれだけ接点、共通点があるのです。

1: 事件を起こした少年は私の母校の後輩である
2: 私も医学部を受験した
3: 田原本町は私の実家の近隣である
4: 少年の父と同じく自分も医師である
5: 私も二人の子を中学受験・大学受験させた

 違うところは、私の家は医師の家系ではなく、子供を医師にするつもりが毛頭なかったことくらいでしょうか。

 いろいろと好奇の目で見られる要素が多くマスコミの格好の餌食になっている感がありますが、正直なところいくら考えても平凡な帰結にしかなりません。すなわち

放火および尊属殺人を犯した少年に同情の余地は無く、家を焼かれ、妻子供を殺された父親は被害者以外の何者でもない

ということです。なんと言う単純で冷酷な意見だろうと思われるかもしれませんが、よくよく考えて考え抜いても結局そこへしか考えは帰ってこないのです。思うところはいろいろとありますが、
1: 何故少年はあれほど同情されるのか
2: 何故父親が悪者にされるのか
私にはどうにも理解できません。

 せいぜいが成績について嘘をついていたのがばれて、大目玉食らって2,3発殴られる程度の事が「追い詰められていた」なんて軽々に表現するようなことでしょうか。家族を焼死させるに足るような追い詰められ方なんでしょうか。親に反感を抱くこと恐れること、それは誰でもあるでしょう。家に火をつけてやろうかと思うこともないではないかもしれません。でもそれをやらない分別を持つ事が当たり前なのであって、分別も無くやってしまった人間を「精神的に追い詰められていたのだろう、かわいそう」という程度の理由で擁護してどうするのか、と言いたいですね。

 「リセットしたかった」「時間を戻したい」と言うような表現は、ゲーム感覚とかの分析対象にはもってこいの表現なのかもしれませんが、要は「精神的に幼い」だけのことでしょう。手前味噌ですが、私の母校は校風として勉強よりも人間形成の方が大事である、との方針で非常に自由な校風でしたし、教師陣にも人間的に尊敬できる方々がたくさんおられました。そして今でもそういう校風だと聞いていたので、その母校で3年間を過ごした学生がそれ程未熟な精神性しか持ちえていなかったと言う事は本当に残念です。「受験戦争」なんてまだまだ先の話で、高一程度の時期でそんな用語を持ち出すこと自体マスコミの固定観念的発想だなあと思います。

 父親はスパルタ教育をしていたというだけでマスコミの格好の餌食になっていて、本当に気の毒です。普通家を焼かれて妻子供を失って、犯人が息子だった、と言う精神的衝撃を考えればそっとしてあげるのが人情じゃあないんでしょうか。彼は加害者ですか?被害者でしょう?彼の教育についていま批評の嵐を浴びせる事が適切な報道行為なんでしょうか?
 田原本から伊賀上野までって、地元の人でしか実感できないと思いますが、結構な長距離通勤だと思います。それに泌尿器科部長という多忙な地位。しかも妻の福祉施設のこともある。仕事を全うするだけでも過労で倒れても不思議は無いくらいだと思います。
 その疲れた身体を引きずって家に帰ってきてなお、高一になった子供に教育できますか?付け加えるなら私の母校で高一の時期なら、速い科目ならもう高二のカリキュラムに入ってます。私なら多分英語以外無理です。
 いろいろと結果論で父のやってきたことを批評する意見も多いですが、父の立場で考えればこれだけ子供のために尽くしてこのような事件を起こされてはたまったもんじゃない、と言うのが正直なところなのではないでしょうか。少なくともマスコミがあれやこれやと後ろ指さすような事ではない、と申し上げたい。

 もちろん取り上げられている諸事情は今後の審判に際して情状酌量の材料にはしてあげてほしいし、少年には立ち直って欲しい、父にはまた平穏な日々が戻ってきて欲しい、と願います。しかし、その上で敢えてもう一度言わせていただければ、少年には取り返しのつかないことをしたのだと言う認識をはっきりと持っていただきたいと思います。そしてマスコミには必要以上の、そして興味本位の詮索をしないで欲しい、と願います。