ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

ギュスターヴ・モロー展

HyogoMuseum050702

 Takiさんが紹介しておられたギュスターヴ・モロー展兵庫県立美術館へ観に行ってきました。

フランス象徴主義を代表する画家、ギュスターヴ・モロー(1826~1898)。神話や聖書など古典的な物語に主題をとりつつ、そこに自らの内なる感情を表現しようとしたモローは、卓越した想像力で独自の神秘的な絵画世界を編み出しました。宝石のようにきらびやかな色彩でいろどられたその作品は、一世紀以上の時を超えた今もわたしたちを魅了してやみません。

rainy_drive 久しぶりに山を降りましたが(仙人か?)、昨日は生憎の雨。いつもは神戸港を遥か下に見下ろせるこの橋も今日は濃霧に包まれていました。

 山の下も雨模様とはいえ、やはり山上よりは明るい。前回は迷路と思われた兵庫県立美術館も、さすがに2回目となると、ある程度学習ができていて無難なエレベーターコースでチケット販売所へ辿りつきました。

 展覧会の詳細は大変お詳しい上記Takiさんのブログを参照していただければ幸いです。基本的には歴史画家であり題材の殆どが神話、聖書から取られており、それに独自の神秘性、幻想性を付与したことで後年のファンタジー、SFの世界に多大な影響を及ぼしたといわれています。私たちの世代では創元推理文庫の金星シリーズの表紙絵などが懐かしく思い出されます。

 しかしながらそういう前知識と裏腹に、意外なほど完成作品のフィニッシュが粗雑であることに違和感を覚えました。Takiさんが「未完成というよりわざとそうしたのかもしれない」とおっしゃっておられたのはそういうことか、と納得しました。

 たとえば、初期の頃の女性の顔にはのっぺらぼうのものがあります。また、顔が描かれていても正直なところ「へのへのもへじ」程度の線しか入っていないものもありました。

 また、中期ー後期の作品にしてもパラノイア的に精密詳細に描かれている部分と、下絵程度の線しか入っていないところが混じっている、習作かと疑わせるような作品が多くありました。極端な作品としては「デイアネイラ」が印象に残りました。ヘラクレスの妻デイアネイラに乱暴しようとする半人半獣のケンタウロスであるネッソスの絡みは濃厚に描かれていますが、対岸から毒矢を射るヘラクレスはなんと輪郭だけしか描かれていません。習作もたくさん展示されていますが、これはあくまでも完成作品なのです。

 また展覧会の目玉で傑作と呼び声の高い「出現」。サロメと空中に浮かぶヨハネの首の構図があまりにも有名で確かに見応えがあります。実はこの作品、二十年ほど未完成のまま放置されていたそうです。そして後年手を入れたところというのは壁の線描的装飾部で、絵画全体の完成度を高めるというよりは却ってバランスを不自然なものにしている印象を受けます。帰ってきてTakiさんのブログを再読してみて

離れて見たときには線描は模糊とした背景にうずもれサロメと宙に浮くヨハネの首だけが前面に浮き出ているのに対し、近づくにつれて線だけで描かれた装飾的な構造物と人物が背景に重なって現れることだ。あたかも漠然とした色彩だけの世界と、透明だがしかし明瞭な形を持つ線描の二つの世界が同時に重なっている中に、サロメヨハネの首だけがそれを超越して存在しているように見える。いうなれば画面という二次元空間に二つの三次元空間を重ねて描いているような感じで実に巧みで効果的だ。

なるほど、そう観るのか、と感服はしましたが、どう見ても普通の完成のさせ方ではないですね。その他にも多くの作品の習作では非常に綿密なデッサンがされてますし、方眼をわざと残してある作品もありました。だから、意図的に未完成に見える部分を残すことの多かった人であることは明らかで、私の知る限りこのような神話、聖書に題材をとる歴史画家にはない作風と思います。私のような凡人には図りがたい天才肌の感性の持ち主だったのでしょう。

 そのような印象にもかかわらず、というか天才のなせる業なのか、後でクルんですよね。強烈な吸引力を持っているようで、気になって脳裏から離れないんです。サロメの絵を中心に5枚ほど葉書を買って帰ったんですが、それを見返すたびに何であの絵をもっときっちりと見なかったんだろう、とか、あそこの部分をもっと近寄ってみておけば良かったとか。

 来週の土曜日は学芸員の方による説明会があるようなので時間が許せばいってみようかと思っています。