ゆうけいの月夜のラプソディ

ゆうけいの月夜のラプソディ移植版

高村薫の世界

 村上春樹の新作が一段落した今、私が今一番待ち焦がれている作品は高村薫の新作長編です。前作「晴子情歌 (上)(下)」が高村女史の新機軸であり、3部作になる、ということは発売当時の新聞インタビューで述べられていました。ですから次回作はこの続編となる筈ですが、2年を経過した現在もまだ正式なインフォメーションは(私の知る限り)無いようです。早く読みたい気持ちは日増しに強くなってきているのですが、はやる気持ちの沈静と復習を兼ねて表題のような本を買ってみました。

高村薫の世界―あるいは虚無の深奥への招待
野崎 六助

 高村氏の作品を初期ミステリ群、短編群、合田刑事3部作、「晴子情歌」に大きく分けたうえで個々の小説につき詳細な検討が加えられています。著者がミステリ作家と言うこともあり、その方面の造詣が非常に深く高村薫がどの海外作品に影響を受けているかを知ることが出来て勉強になりました。

 また、高村作品を単純に賛美するのではなく、その難点も説得力のある筆で書かれています。高村作品を特徴付ける「具象の克明な描写」は読者を惹きつけてやまない素晴らしい特質ではあるが、その一方で「人物造形」に関して非常に観念的あるいは虚無的であることが多く具象のリアリティとの乖離が大きい、また具象を書き込めば書き込むほど人物描写が相対的に希薄になる、という指摘などはなんとなく感じ取れてはいたことですが、こうして活字になってみると自分の中で整理がつきます。

 

 また初期作品のほとんどが改稿されているという指摘は重いものと感じました。彼女ほどの作家でも最初から完成した作品を書くのは如何に困難なことであるのかが伝わってきますし、逆に彼女がデビュー作からそれほど重いものを扱ってきたのだと言うことも実感できます。

 小説として最も完成度の高いものは「照柿」であり、最も話題となった次作「レディ・ジョーカー」は壮大なる失敗作である、と言い切るあたり、やや大向こうを切って演技しているような雰囲気も感じますがそれに釣られず冷静に読み解いていくとまあなるほどと思える点も多々あり、久しぶりに読み返してみたくもなりました。

 彼女が何故男性のホモセクシャルにあれほどこだわるのか、と言うことをずっと知りたいと思っていたのですが、それに関してはあまり深入りはされていません。作者への直接のアプローチはなく、作品からのみの考察なので無理も無いのですが。

 野崎氏がむしろ強調しておられるのは、女性の描き方があまりにも皮相的で、背景程度にしか扱われてこなかったという点です。そしてその欠点をついに克服し、高村流の女性像を確立したのが「晴子情歌」であると結論付けられています。

 個人的には晴子という女性造形には、まだ多分に観念的すぎるきらいがあると思います。当時のインタビューで女史は

特別でない人生を送る女性を造形したかった。既製の枠組みから飛び出せず、文句を言いながら年を重ね、気が付いたらおばあさんになっていた。ある意味で、平凡な女にしたかった。
と述べておられますが、女史の教養が我知らず溢れてしまったような高尚な手紙の文章からは庶民という感じがあまり伝わってきません。まあその文章を読み解くことが高村ファンの醍醐味ではあるのですが。

 敢えてこの本の難点を挙げるなら、章の構成でしょうか。晴子情歌に関する評論が最終章に来ているため、尻切れトンボの感じが拭えません。晴子情歌が出版されたばかりだった頃の評論だったのでそういう構成になったのでしょうけれど、2年経った今読むとやや違和感があります。まとめが最後に欲しかったなあと思いますが、読み返してみると、冒頭の章に「シメ」になる文章が何気なく配置されているのに気が付きました。序章p11の9行目:

高村薫の世界にある執拗な通底音を一言で表すなら、それは虚無だ。人は虚無に生まれ、虚無に帰る。高村の作品は、どれだけ具体的な細部のリアリズムに裏打ちされようとも、いや、むしろ、その具体性に裏打ちされるのに比例して虚無へと牽引されている。

 注)「インタビュー記事」という記載は2002年6月12日毎日新聞文化欄に掲載された重里徹也氏の「5年ぶりの長編『晴子情歌』の高村薫さんに聞く」によっています。この記事には野崎氏が述べられていない内容もあり、大変興味深いものです。後日また機会を見て記事にしたいと思います。